憲法勉強会 3月25日ブッダ・カフェにて

3月25日13時〜ブッダ・カフェ(徳正寺)にてバガボンド・カフェをまた行わせていただきます。
告知遅れてしまって本当に申し訳ありません。

このカフェのテーマを憲法にしたのはきっかけは、前も書きましたが、小説家の赤坂真理さんが朝日新聞に寄稿した記事「明治を、取り戻すのか〜改憲論に思う」という一文でした。

「日本の歴史の悲しさの一つは、何かを内側から本当に欲する前に、外から入れざるを得ない状況になることだ。幕末に開国を強いられ明治に突貫工事で近代国家を整えたとき、政府は戦前の大日本帝国憲法をつくった。列強にあるから「Constitution」を輸入し、そこにさらに「憲法」と漢字を当てた。私も含めわかった気になっているが、本当はどれほどの日本人が「憲」の意味をきちんと言えるだろう?」
朝日新聞 2013年8月13日朝刊)
この文は、まえにわたしが「日本人について」というタイトルで同じくバガボンド・カフェで話したとき取り上げた、1967年出版の江藤淳の『成熟と喪失』のなかで紹介された小島信夫の小説『抱擁家族』の一説〜主人公が、アメリカ人の若い兵士に「わたしが責任を感じるのは両親と「国家」だけだ」と言われ゛カッ゛とする場面〜を思い起こさせました。
つまり、日本人は「突貫工事」で近代思想を取り入れ、明治国家を作りましたが、その半世紀後、敗戦し、占領下で民主国家となり、主権在民の「憲法」を持った。
しかしながら、そのような歴史のなかで、実質的な原理をつかんだ実感がないため、赤坂真理さんのような「みんな、わかってるの?」という叫びをあげたり、アメリカ人の若造が「国家」という一言に、つい自身にない実質を感じカッとしてしまうのだと思います。
この勉強会のテーマは、「憲法」でありながら、そのような「憲法」をにわか勉強しようとする態度や心性そのものが「日本人的」で、赤坂さんも、小島信夫(=江藤淳)も、そのような「にわか」からいかに日本人が脱出できるのか、模索しないと何事もまえに進まない、という直感を表現したのだと思います。

前回は、「民主主義」のことや世間にはびこる全体主義的な風潮を危ぶむ話になりました。
赤坂さんのその記事のすぐとなりに、アノ丸山真男の写真があります。これは実は丸山真男の命日が8月15日の終戦記念日で、毎年行われてきた「丸山真男手帖の会」が2013年を最後に休止するという記事なのです。
戦後、というのがますます終わりつつあることを感じる記事ですが、昨年NHKで丸山真男を特集した番組が放映され、録画したものを最近見る機会がありました。
そこで丸山は印象深いことばを語っていました。
それはこんな意味のことばでした。
〜「民主主義とは完成したかたちのものはこの世界にはまだ存在しない。それは完成に至ろうとする「不断の努力」という活動の形でしか存在しないものだ」
となると、わたしたちは日々そのなかで、試されている、のかもしれません。
なにかいまさらですが、「憲法」というテーマは、それをまともに話すには、大きすぎるものだった気がします。
しかし、このテーマを選んだ「原点」には、「憲法」そのものよりは、それをめぐるある種の深い日本人の心性を探ってみたい、ざっくばらんにその辺りを話してみたい、という意図があったことを、いまさらながらですが、申し述べさせていただきます。
ともかく、前回のカフェで、話題が「民主主義」の話になり、がぜん場が活気づいてきたので、いまやっと、みなさんが話したいこととわたしたちの意識が触れあってきたのかな、と思っていたところ、(もっと早く気付けばよかったかもしれません)明日、わたしは実は参加できず、一緒にカフェを運営している西村さんに、委ねることになりました。
申し訳ありませんがご了承よろしくお願いいたします。