百円(あるいは108円)均一の棚の辞書について 司馬遼太郎の旅行記

BOOK・OFFに百円ないし200円で辞書が売られている。たしかに出版年度の古いものだからたぶん引っ越しとか進学とかの節目に、重量級の書物は本棚を占める空間も大きく、「お荷物」となり払い下げをくらったのだろう。
また学校時代が終われば、使用することもなく、場所を取るばかりだから、という理由もあろう。
もちろんもっと高値のついたものも少なくはないが、コミック、文庫や新書の100円は見馴れたものの、辞書の百均にははじめは衝撃を受けた。
上記のように、売る人の気持ちはわかるし、多くは故紙回収に出されるにちがいない運命を思えば、まだBOOK・OFFで廉価で売られているのは、物を大切にするという点ではいいのかもしれない。
しかし出版社がおそらく文字通り心血を注ぎ、その文化的な使命を利益よりも優先して(という場合が多いにちがいないと素人判断で思うのだが)、世に出した本が、100円でたたき売られている光景は、出版という文化事業の衰退をまざまざと見るようでなんとも言えない。
いまそうした既存の出版物の文化的価値みたいな評価があるなら、他のもの、アパレルや音楽メディア等と比べたら底値に近いほど下落しているのではないか。
もちろん大きな原因は、パソコンやスマホ普及による情報革命だろう。
いまや「辞書」は花形だった電子辞書にとって代わり、インターネットによる電子本や検索サイトの時代だ。
それにつれ、出版不況や商店街そのものの消滅から、リアルの本屋さんも激減していて、辞書を身近に手にとって見る機会は、おそらく加速度的に減っているだろう。
新刊の辞書は大型書店でなければ目にすることはできない時代になった。(ネット通販では、わかりにくい商品のひとつではないか。)
しかしながら、つっかけで最寄りの駅前の本屋さんに行き、はじめて買う辞書を立ち読みして選ぶ、という経験は、語学を学ぶという行為の総体のなかで、かなりの方向性を決めるかもしれない重要なものだった気がする。そういう体験が、普通に得られた昔みたいな環境は、滅びつつあると言えよう。

インターネット環境の整備は、都市化による道路や住宅整備と似て、心のなかの未知なる世界を既知のものと塗り替えてしまうのではないか。もちろんそれは錯覚に過ぎない。
ネットで閲覧したら手軽に得られる知識が、自分のなかにあるものと感じるのは思い過ごしだろうが、現代社会は、まだ生まれたての赤ちゃんにも、もはや未知の謎も、学ぶべき叡知も存在せず、すべては電脳内にあらかじめ蓄えられていて、知的努力をはらい、勢力を傾注して学び知るほどのものはこの世には残されていない、と思わせるような気配が充満している気がする。
それと比べれば、辞書は未知の世界に開けられたドアであり、その先の無限なる知の世界を垣間見させる窓としての書物の機能を立派に保っていると言える。
それはリアルでアナログなものが持つある種の特性のように思われる(一見すると、デジタルのバーチャルな世界は無限で奥深く思わされるが、底は意外と浅く、広がりが有限なように思う。
有限なるアナログでリアルな紙の本の方が、無限を本質的に保有しているというのがわたしの個人的な意見である)。

かつて辞書はその国の文化力みたいなものを測るバロメーターだったらしい。
司馬遼太郎は、1970年代にモンゴル人民共和国を旅したとき、シベリアのイルクーツクで通訳をしてくれた日本語を学ぶ女子学生から「露語辞典」について尋ねられたときのことをこう書いている。

「彼女には、世話になった。わかれるとき、なにか記念に貰って頂けるものはないか、ときくと、彼女は、露語辞典がほしい、そういう辞書が日本にありますか、といった。
彼女のいうところでは、彼女の大学はソ連でも日本語研究で知られた大学だが、辞書は、全学生が共用しているものしかない、という。それも一冊だけだという。
それだけに、彼女は、日本でも似たような事情ではないかと思ったのであろう。
私は、どう答えていいか、言葉をえらんだ。自国の自慢のようにうけとられることをおそれたのである。が、ありのまま答えた。」
司馬遼太郎『ロシアについて』「雑談として?」文春文庫 p.201」)
その女子大学生は「ブリヤート・モンゴル」というシベリアにかつていた少数民族の末裔だった。
「彼女は、ウラジオストックにある極東大学の日本語科の学生で、両親はイルクーツクに住んでいる。父も母もささやかながら知識人というべき層のひとであるらしかった。」と、その直前に書かれている。

司馬遼太郎はこう答えた。「私は、大阪という町の東のはずれの場末に住んでいる。私鉄が通っているが、私の町には急行は止まらない。その程度の町でも、駅前の本屋に、露和辞典や和露辞典はたえず二、三冊は置いてある」
(同著 p.202)

たしかにほんの七、八年前くらいまで、日本の地方都市の駅前には本屋さんがあり、司馬氏の言うような状態は日常であったように思う。
しかしながら、もはやそういう事情は、この国では特殊なケースになってしまったように感じる。
たぶん大学の生協の本屋さんか大型書店にしか露和辞典はないに違いない。
いまや中高生でも、辞書はよほどでないと使わなくなったようだ。
そのことと、いまやネット通販でBOOK・OFFで、露和辞典だけでなく、珍しい語学の辞書がパソコンかスマホがあれば、家から一歩も出ずに買えてしまうだけでなく、運がよければだが、BOOK・OFFで、破格で掘り出し物で見付かるといった環境が、整って?いる現代を、文化的に高いと見るか低いと見るか、簡単にはわからなくなってしまう。

この件について、最近これもBOOK・OFFにて100円で売られていて、二度目に買った村上春樹の短編集のなかの文章が、的確に表現しているように思える(これもかなり前、1985年に発表された作品だが、いまの感覚に通用する新しさがまだあるように思われる)。
二度目というのは最初に買った同じ文庫を無くしてしまったのだ。
「ときどきまわりの事物がその本来正当なバランスを失ってしまっているように、僕には感じられる。」
村上春樹象の消滅」/文春文庫『パン屋再襲撃』p.68)