何とか最近、母の介護に慣れてきた?、、(と書いてしまうと、またなにか起こりそうで恐い。)
そのつど、「選択」を迫られるが、そういった「選択」をどのように考えて決めればいいのか、についての自分なりのやり方が、少しだがわかりかけてきたのかもしれない。
それは、実は、職場で決断を迫られたとき、自然に取っている方法と同じようで、また違うのかもしれない。ヘルパーさんが、たくさん出入りしてくれていて、いろいろと情報をいただいたり、話しているうちに決めていることが多いかもしれない。
でも、結局、直感や思い付きが意外に多かったりする。
でも、これも、最初はずいぶん大変だった。最初は、自分がいいと思うことに、自信が持てないもので、意見が周囲と食い違うとき、どういう風に切り抜けるか、というのは、経験がないととても難しいものだ。
かなり感情的に、孤独な立場に入ってしまい、自分の思いが凝り、硬く周囲に対してしまったことも数多くあった。
皆さんそうなのであろうし、インターネットの知恵袋的なサイトでも、介護をする人たちが質問を投稿し、答えを募集されていたりする。(わたしも、「がん見」していた。)
何が一番いいか、経験がない者がわかるわけはない。そう思う。
だが、経験がないところを狙いすましたように、そこを狙うか〜、みたいな感じで、そういう重要な判断を迫られる。
そういう場合、人は何を頼りに決断をくだすのだろうか。
そこで、自分に答えが「降りて」くるかどうかが、たとえ、それがその決断の瞬間でなく、かなり時間的にずれてしまっていても、大切であると思われる。
わたしは、母の介護に関しては、失敗も数多くしてきているように思う。いや、ずいぶんしてきた。こうすれば、よかったのに、ということも考えたらたくさん出てくる。
それは、際限なく出てくる。
しかし、そのときそのときに揺れた心の幅が大きいほど、その行き来で「決断の溝」みたいな、山の中で迷い踏みしめている間にできる「獣道」みたいなものができ、その道に沿って歩くということができてゆくのではないか。
思い悩むことが次第に減ってくるのがわかる。たぶん最初は、わたしのような少しへんこな人間は、アスファルトの片道三車線あるような高速道路っぽい道を行きたくない、という嫌悪感が先に出てしまうのだろう。それで、道なき道みたいな藪にそれていってしまう。
周りの人はそれをやきもきして、そっちは道じゃないですよ、みんなこっちから行ってますよ、と教えてくれているのだろう。そういう人もいれば、実は、こういう道もあるよ、と教えてくれる人も、待っていれば、現れるのが面白い。
そういう人は、たぶん、自分で道を開拓しようとするタイプの人が多い気がする。どうもわたしはそういうのに惹かれてしまう。
それは、実は、人生そのものともいえよう。いまこうやって、考えられていること、それがかけがえのない幸運であり、奇跡のようにも思える。
今日は、昨日、一昨日に続きじつにいい天気で、空がものすごく青かった。
昨日、今日と、行きたかった本屋さんにも寄ることができた。
ずっと、ブックオフとかツタヤみたいなところばかりしか行けなかったので(それが悪いというわけではないが)、ちゃんとした?本屋さんで本を見るということを、すごく新鮮に感じた。(だが、ゆっくりと見た訳ではない。なんだか落ち着きなく急ぎながらみている感じがする。わたしはまだまだ、本屋さんの本に呑まれてしまっていて、自分の波長をうまく合わせられていないような感じがずっとするのだった。)
いま感じているのは、「ちゃんとした」本屋さんの店主というのは、やはりプロと呼ぶにふさわしい読書経験を持ち合わせていることで、それがかなり品揃えに影響を与えているということ。当たり前のことだが、納得してしまう。
だが、それは、みんな、それぞれその人だけの持つ世界があり、われわれがそれに向き合う場所のひとつが、本屋だという言い方ができそうで、誰でも、この世に生きてそれなりの人生を歩んでいる人ならば、その人なりの本棚があり、それは「ちゃんとした」本屋さんに引けをとるものではないはずだ。
とは思うが、わたしは、そういう本屋さんに行くと、いつもそういった「引け目」を実は感じてしまう。それをある意味、鈍感になり、克服しないと、そういう本屋さんに出入りできるものではない。でも、入りにくいような店ほど、その人にとってはいい体験になるものだと思う。
どうもパソコンの調子が悪く他に書きたい事もあったが、今度にします。
今日、見晴らしのいい場所に偶然出会い、撮った写真です。