そうじ嫌い?とミニマリストとレイモンド・カーヴァー

母が退院してきて、ちょうど2週間を越えた。退院前と退院後で決定的に変化したのは、人の出入りが増えたことである。
これは大きな変化で、いままでも一時期ヘルパーさんが一日一回は来てくれていたこともあったが、いまみたいに毎日3回休みなく訪問があるということはなかった。
これはほぼはじめての経験である。

ヘルパーさんが来るとき必ず家にいるわけではない。
ここだけの話にしてほしいが、留守中でも家に入ってもらえている(それはずいぶん助かる)。

ところで、いままで、かなり長い間、家族が母一人という生活が続いていた。
しかも途中から、母がくも膜下出血で倒れ、あれは丸7年前だったが、それを機に、母は家事の一線から退き、家のなかをわたしが切り盛りしていかなくてはならなくなった。
その結果どうなったかと言うと、恥ずかしながら、わたしの悪い癖〜そうじ嫌い、のせいで、家の中は散らかり放題になってしまった、、。

また、今回、母が入院していた間、一人のきままさと夏の猛暑とふってわいた仕事の忙しさがわたしのぐうたらさに拍車をかけ、さんざんな有り様に実際なっていたのだった。
だから、母が退院する前には、ひどく途方にくれていたと言ってもいい。
どうやって家のなかを、また母の寝る部屋を片付けたらいいのか、まったくわからなって、掃除がてにつかず、焦っていたくらい、わたしは掃除馴れしていなかった。

たしかに、掃除は馴れ、が大事だ。身体を意識せず動かすことからはじまる。
いまもまだまだ片付けの最中である。しかし最初は途方にくれていた状況を打破できたのは、出来ることをやること、つまり出来る以上のことをむやみに求めないこと、だと言える。
やはり一挙にはなかなか片付かない。
今回は、母が寝る部屋に、室内用の車椅子を入れるため、リビングにあったソファーをどうするか悩みに悩んだが、知人に相談してフリマに出すことにした。
それで、写メを撮りサイズや材質をメールした。
実際は売れなかったのだが、いよいよ介護用ベッドを入れる日、福祉用具レンタル会社のお兄さんに、明日フリマに出すからとりあえず隣の部屋に移動してもらった。
じつはフリマでは売れなかったので、いまもその部屋にあります、、。
が、動かすためには、フリマに出してしまおう、という決断が必要だったと思う。
動かしはじめると、フリマに出すのでぞうきんで拭いたり、背もたれが倒れベッドみたいになることがわかったり(わたしは何回かそうして寝るようになった。)、とにかく掃除のスタートはそのソファーのとりあえずの移動だった、としみじみ思う。
大物を動かすことは、ことが運ぶ重要な手段だとあらためて知った。

そしていま、退院後2週間の短い期間ながら、わかったのは、やはり人目があると人間、自然と片付けるようになるのかなぁということである。
いまも、ヘルパーさんが家に入ってくると、テーブルを片付けたり、洗濯を始めたりというわたしがいる。
わたしは決して掃除は嫌いな方ではないと思う。やり出すといろいろ凝って、やりすぎてしまうくらいだ。
だが、人目がない独り暮らしや、客のほぼない状況が続けば、ぐうたらさがむくむく育ちはじめ、部屋のなかをはびこりだしてしまう。
わたしは、わりと人目を気にして、いざとなれば押し入れになんでもかんでも詰め込み、見た目、キレイにしようとする、典型的なA型のところがある。
実は、AB型なのだが、人前では突然体裁を繕うというAの面が出てくるのを感じてしまう。
ただ、物を捨てることが苦手だ。これが家の中が片付かない(会社でも自分の机回りは散らかっていた、、)すべての元凶であろう。
最近ミニマリズムということばを新聞や雑誌で見かけたりする。
モノを減らして生活に最低限必要なものだけで暮らすライフスタイルを指すことばのようだ。
わたしは、マジでそれに憧れる。思いきって何もかも捨ててしまいたい。そう願いっていながら、それがなかなか実現しない。
いったいなぜなのか?
これは精神分析的に考えてみると、世の中の他のこととも共通する傾向が見られる。つまり、おそらく、わたしは心の底ではそれを願ってないのだろう。
物がいっぱいあることがいいことと、(意識のなかでは物をなくしたがっているくせに)無意識では思っていて、ものに囲まれているのを満足しているのだろう。
その意識下の根深い自分の価値観を変えないと、変えるのが無理なら意識だけでもしないと、決して片付けられないだろう、という気がする。
まさに「汝自らを知る」ことがすべてのはじまりである。

ちなみに、村上春樹がよく訳して、本になっているレイモンド・カーヴァーというアメリカの小説家の短編に、こんなのがあった。
ベッドやらなにやら家のなかの家具をいっさいがっさい、自分の家の庭先に運びだし、部屋の中と同じように並べて、いわゆるガレージセールをする男の話だ。
その前を通りかかった若いカップルが、ベッドを物色したあと、その男とレコードをかけてダンスを踊る。
レコードプレーヤーや古いレコードも、そとの庭に出され売られていたのだ。
どうも、この男は奥さんと別れたらしい、ということが、書かれてはいないが、わかる短編だった。

たしか、カーヴァーは「ミニマリスト」と呼ばれていた。その作風を代表する作家だった。
その文学のスタイルを指すことばと、いま日本で流行りのミニマリストは、まったく関係はないだろう。
おそらく、日本でいま流行のミニマリスト和製英語のような気がする(アメリカでも、そういうのだろうか?)。
だが、不思議とカーヴァーのこの短編作品では、つながっていて面白い。
アメリカにも断捨離は存在する、ということだ。
また、いま日本でも自分の不用品を売るフリマは普通に行われている。
そうかんがえると、日本のミニマリストも、やはりアメリカが先駆なのかもしれない。