久しぶりの休み

前回母の介護のことをかなり抽象的に書いたのだが、もう少し最近のことを具体的に書いてみたい。
毎日、ほぼ何をしているか、仕事のとき以外はやはり台所にいることが多い。いまも食事の後片付けをして、お茶を沸かしているところだ。
先週末から仕事がなぜか立て込み、今日久しぶりに休みになった。
だが休みだからといってそうおちおちとしていられない。
毎日ヘルパーさんが朝昼晩と来てくれている。おむつ交換と食事介助のためだ。あと週三回ディサービスに行く日は、送迎の補助(車椅子を玄関から出し、前の段差に簡易のスロープを設置しおろし、またあげると言う、前にも書いた大変な作業)が加わる。
現在、介護サービスの規定上だいたい、一度の訪問に対し1時間を目安にプランが立てられていて、これはどういうことかと言うと、時間制限があるということ。
だからその時間内に作業が終わるよう、なにかと前準備と引き継ぎが必要になってくる。
食事介助前には食事をあらかじめ用意しないといけないし、おむつ交換のためには顔用と下用の別々のタオルを洗濯し乾かしとかないといけない。
時間は決まっているから、夜勤の明けの日も起きなければならない。どうしても起きれない場合は前もって食べるものを卓上にだしたり、冷蔵庫に入れておかないといけない。
夕食は一緒に食べる。だが食べさせているとなかなか食べることができない。

こう書くとなんだかすごく大変そうな気がする。実際、今年9月下旬からはじまり、ほぼ最近までの約3ヶ月間は、大変に思えた。
いま慣れてきた、みたいなことを前回書いたのは、わたしがそうした作業のなかでの、手の抜き方を会得したということだと思われる。
あらかじめやるべきことをあれこれ考えるのはかなり心理的に負担になる。
自分がいないときは仕方がないが、同席するときはその場でありあわせのものを出すことで間に合わせることができる(ただ、ある程度予測して買い置きしたり、冷蔵庫に保存したりするのは必要だが)ことがわかってきた。
なりゆきに任せると言おうか。
またこういうこともある。あとでもそれに触れるが、誰か第三者が家に入ってきて作業しはじめると、自分もなぜかしら動きはじめるということがあるのだ。

洗濯はほぼ毎日するようになった。これもいままでがかなり無精であっただけで、普通の家庭なら毎日なのだろう。
しかしなぜか先週、毎日していたつもりだったのに、洗濯物が一気にたまっていて物干しが一杯なってしまった。たしかに、つい洗濯を迷った自分の服やなにかが置きっぱなしになっていたのかもしれなかった。
(少し前まではそれが普通だった。)
また母が風邪?を引き熱を出したあと、状態が安定せず、リズムが狂ったことがあったと思われる。
ヘルパーさん達はうちでの作業に慣れてきていた。
ヘルパーさんはそれぞれの利用者のうちのやり方に最大限合わせるスタイルの仕事で、かなり大変だが、入るうちごとに細かくやり方が変わる。
最初にヘルパーさんを利用したときは、いまよりもっと頻度も週一回と少なく、利用の種類も見守りに似た軽いものだった。
しかしいまや日に三度も利用することになった。それもこれも介護保険といま認定を受けれている障害者の補助制度あってのことなので、最近社会保険の財源云々が取りざたされているが、うちの母の世代はともかく、今後われわれのとき、日本の介護サービスがいまみたいな状況にあることは予測しがたい。
ありがたながら先を不安に思う人々が多いことであろう。
それはともかく、さっき書いたこと、ヘルパーさんが来るとわたしもなんかの用事、たとえば掃除や洗濯をはじめるきっかけになるということだが、なぜなのだろうか。
一人だと腰がやたら重く、ついほったらかしにしてしまうことを、家のなかに働く他の人がいることで、連鎖反応で動き出してしまう現象。
人間の意外なといおうか、はたまた弱いというか、影響を受けやすい側面を痛感する。
これは田舎の方の農作業を見てもそうだが、誰かが草刈をしはじめると、草刈機の音があちこちから聞こえてくることがあって、それにも見られる、人間の習性といおうか、なにか深いつながりを感じる一傾向である。
これは単なるひと真似ではないようだ。
つまり、われわれは他人の行動を点火プラグにして自分のエンジンを動かす存在なのではないかと、思うこの頃です。

今日はPM2.5が飛来するという予報があり、そのせいか空が黒っぽく曇っています。明日は寒くなるそう。
今日は、母の掛かり付けの往診の日でもあり、さっき先生が来られ帰られたばかり。
実は、前回往診は臨時で、熱が出ててんやわんやしてたことを思うと、いまその前に戻ったことはありがたく夢みたいだが、思えば、それは退院後最初の試練であった。
それが、わたしだけでなく、母がお世話になっている人たちみなさんに与えた影響は大きかったように思う。
これから何度かまた乗り越えなければならない事態があるかもしれないが、いまはホッとしているところです。
いま母の世話のスタイルがやっと固まってきたように思うのは、そのせいかもしれません。