「祇園祭が終われば夏本番」と昔の京都と中原中也『夏の日の歌』

宵山(月鉾)

よく祇園祭が終わるまでは梅雨が明けない、といわれ、例年祇園祭は梅雨の明けないうちに行われ、宵山や宵宵山は雨に襲われ、山鉾巡行の日さえ、雨に見舞われるといった不運な年も少なからずあったように記憶している。
ところが、今年は、ちょうど14日の宵宵々山の夜中に集中豪雨があったにも関わらず、宵宵山宵山、そして今日の巡行と晴天続きで、暑さも半端じゃない夏本番の暑さとだんだんとなっていき、そして今日、山鉾巡行が晴天のもと行われ、不思議と、ことわざどおりに夏本番の日が到来している。
今年は、三連休と重なったためか、人出も多かったみたいだった。(15日の宵宵山は、29万人とのこと、昨年より1万人多い<京都新聞>)
祇園祭に、わたしのいまの職場で毎年夜店を出している。本社が四条通に面しているので、そこが例年歩行者天国になるためだ。すぐそばに鉾も建ててあり、人がよく通る。
今年は、その助っ人で、宵宵宵山と宵宵山の二晩、出店で缶ビールやヨーヨー釣りの勧誘をした。
そのあととなると、もうほぼ山鉾の電気は消され、夜店も解体(昼間は、車道に車が入るので、毎日露天は撤収しなければならない。)作業に入るという時間になってしまうが、地下鉄の深夜増発運転もあり、浴衣姿の歩行者もすぐには帰らない。
わたしも、会社の同僚とぶらぶらして、夜店にちょっかいを出したりした。
山鉾町は、祇園祭の山鉾全32基(今年は142年ぶりに大船鉾が唐櫃を担いで最後尾を巡行したらしい)の数だけあるのだろうが、この祭りの梅雨の蒸し暑いなか、結構大変な作業だと思う。
しかし、1年のうちで、この時期だけは、昔たしかに存在したし、いまも不思議とか細くなりながらも消滅せず残っている「京都の町衆」というものの実感が、身近に感じられる。
山鉾町の基地的な建物が大きな何階建てかのマンションになっていることも多いが、建物は変わっても、そういう「町衆」的な感覚というのは根強く残っているようだ。

それでも、京都の中心部は、町屋が次々と100円パーキングに変わっていて、昔、わたしの親戚も中京にあり、親戚が祇園祭のときに集まることもあったのだが、最近はなく、同じような事態が、多くのケースで起こっているような気がする。
祭りを維持するのも、大変なことであると思われるが、やはり祇園祭祇園祭で、その中をうろうろするだけでも、かつて濃厚にあった歴史的雰囲気が、おそらくこの時期だけであるにせよ、濃くなるような気がする。
それは、なんとなく、祭りの行われている場所の周辺でも、わたしの子どものころは感じられた。
昔の建物の、独特のにおいやかつて街路にあった闇の雰囲気、悪鬼が大路を行脚した中世の闇と、祝祭的空間が織り成す独特な感覚である。
そして、真夏の到来とともに、それは霧散する。そして京都の盆地特有のなべ底でいぶされるような暑く長い夏がはじまる。

おそらく冷房のなかった昔の真夏の京都は、想像を絶する暑い日が時々あったろう。(いまでもたしかにある、この暑さは意地の悪い湿気のある暑さで、他の地方にはなかなかないと聞く。)

祇園祭で振舞われる厄除け粽(ちまき)は、この恐ろしい夏本番を、無事にこせるような願いが強くこもったものだったに違いない。

今日は、せみが鳴いている。
つい先日までの、曇った梅雨空がうそのようだ。
しかも今年は各地で(京都市内もそうだった)豪雨の災害続きの、泣きの梅雨であったが、夏空にはあっけらかんとした勢いがあり、気が抜けてしまう。

泣く子と地頭には勝てない、ということわざがあるが、泣く子と祭りには勝てない、と思わせるような、この季節感の超どんぴしゃのタイミングには、驚かされる。

中原中也はかつて、処女詩集『山羊の歌』の中で、『夏の日の歌』という詩を書いている。

青い空は動かない、
雲片(ぎれ)一つあるでない。
  夏の真昼の静かには
  タールの光も清くなる。



夏の空には何かがある、
いぢらしく思はせる何かがある、
  焦げて図太い向日葵が
  田舎の駅には咲いてゐる。



上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  山の近くを走る時。



山の近くを走りながら、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
  夏の真昼の暑い時。

集英社文庫中原中也詩集 汚れちまつた悲しみに…』中原中也著 p.21)

昨日は、そういう夏の空だった。入道雲や雲はあったが、頭上には青空が広がっていて、祭日だったためか、車も比較的少なく、空もきれいだった。