真夏に打ち込む (8月終わりの頃聴いたラジオ)

ちょっとだけ今日思い出したのだが、先月終わりに車の中で聴いたラジオの話しのことを書く。
あれは、たしか8月も終わり、9月に変わろうとしていた頃だった。わたしは、車で100円ショップにかっていた。たしか、土曜か日曜の昼間で、出勤途上であったか、母の入院中の病院へ向かうところだった。
そのラジオは、ローカルのFM局で、なんとなく、先日ここで書いた深夜に聴いたことのある放送のような気がした。
そこで、DJの女性はこんな話をしていた。

夏休みというのは、大切な時期なのだと思う。


連日オリンピックでの報道を見ると、たくさんの日本選手が大活躍している。それを見てつくづく思うが、ああいう形で、オリンピックを目指し、日々特訓を重ねて、メダルを取った体験というのが、その後の彼らの人生にどのような影響を与えるのだろう、ということをふと考える。


たぶん、それは、その人の長いその後の人生に非常に影響を与えるだろう。


若い間に身に付けたことは、たぶんのちのち大人になってから、非常に大きな影響を持つ。


大人になってからでも、たしかに習い事をやったり、趣味で何かに打ち込んだりすることもあるが、若いうち、特にこどものころ打ち込んだことは、早く深く身につき、のちのち役立つことがあるものだ。


たとえば、わたしはこどもの頃そろばんを習っていて、夏休みは毎日延々と、その塾に通いそろばんの練習を続けていた。なぜか、そういうことに夢中になれたのだった。そのとき身に付けたことは、いまだに残っていて、自分を助けてくれている。


こどもの頃というのは、そうしたシンプルな思考でものごとに打ち込める時間をもちやすい。夏休みは、そうしたことに絶好の機会なのだ。
(2016年8月?日 FMアルファーステーションにて ☆引用は要約です。)

このはなしが、そのときのDJの熱い口調とともに、妙に記憶にいまも残っている。
番組ではこの話の後、大瀧詠一さんの「思い出はモノクローム」がかかった。

(もしかして、あれはまた河瀬監督の番組だったろうか、、、?)

さて、わたしの場合その若いうちに打ち込んだことというのはなんだったろうと、今考えてしまう。それは、どうやらひとつに絞るのは難しいが、この文章を書くこと、というのはそのひとつであったかもしれないとは思う。

たいしたことは、まったく書けている気がしないが、、、。

それとは、まったく関係ないが、こんど面白そうなイベント(10月15日土曜日17時〜19時「百年のわたくし」詩の朗読会)を知ったので、ここにリンクを貼らせていただきます。


百年のわたくし


わずか数分が一時間に感じるときがある。

また一日が瞬く間に過ぎる。

ひとは「ものさし」としての時間に振り回されているようで、じつのところ、

個々に「ものさし」をかざして時間を振り回しているのかもしれない。


朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ

蓮如「白骨ノ御文」


「百年のわたくし」とは、「わたくし」というフレームに時間を捉えてみようという試み。しかし、百年という時間が寿齢として計測可能となりつつある現在、時間を「わたくし」という枠から解き放つ試みにも通じる。それは別の言い方をしてみれば、百年の振れ幅を持つ「わたくし」という振り子を、過去にも未来にも振ってみようというものである。

                                               (扉野良人

((扉野良人さんのぶろぐ)2016-10-15 - ぶろぐ・とふんより)

いまわたしの住んでいる場所では、昨日はまだせみが鳴いていたが、今日は台風の接近のせいで曇り空で、こころなしか涼しく、残暑がやんでいる。

オリンピックと灼熱の現場で頭の中をぐるぐる回っていたあの歌の夏が終わる。

現場では、アイスクリームを食べ、普段飲まないサイダーや、凍らせたお茶を飲みまくった。

そういえば、大人になったいま、わたしが打ち込んでいることは、その現場仕事と歌なのかもしれない。

真夏にやることというのは、どうやら自分と深い関係になりそうな気がする。