「風街」の風と山下達郎の語る「風」およびイーグルスとの深い関係

やっと、PCが直り、9月になり、このブログ画面を衣替えしました。
いままで、携帯対応ベースのフォーマットであったのにも、気づかず、ほかの方のブログをのぞくと「自分のとは違うな〜」と不思議に思っていたが、はてなの管理ページをいじっくていて、謎が解けました。

いや〜遅ればせながら、コメント一覧機能や、リンク集までつけることができてホッとしています。

先日「風街ロマン」のことを書いてから、暑い日が続いていたが、ようやくなんとか涼しい風が吹くようになって来た。
そこで、一息つけたのは、どうやら植物もそうみたいで、台風で雨が降った後、山の樹がまさに「狂喜」して、風に揺れているのが感じられた。

はっぴいえんどのナンバーは、有名な曲らしい「台風」も含め風のことを歌ったものが多いが、確かに曲を聴いていると、風景が見えてくる。この感覚は、どこから来るのかわからない。
車を運転しながら聴いていると、道路で出会う自転車やバイク、歩く人、働く人、ガードマン、ジョギングする人など、ふだん見過ごしている人やものが、ぐぁーんと頭に入ってくる感じがする。それらを、障害物として見たりする視線とは、まったく違う視界が明けてくる気がする。
これは、なぜだろうか。あまり、この種の経験をした覚えがない。

そもそもこの「風景」という言葉には、「風」が入っている。おそらく、明治初期にlandscapeを翻訳する際に、作った漢字言葉だと思われるが、まさに風景には風がつきものなのだろう。風を感じるとき、われわれは、風景を見ているのであり、そこに、単なる記号ではない、何かを見ているのである。

昔、山下達郎が、自己のナンバーや、自分の好きな曲について、「この曲は風が吹いている」「このナンバーは吹いてない」みたいなことを言っていた。どうも、山下氏はその基準で音楽の好き嫌いというより、出来不出来を決めているらしく、たとえば、イーグルスのナンバーでは、何より「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」は認めるが、その他の曲は認めない、みたいな言い方をしていたのを思い出す。
たしかに、この曲は、イーグルスのなかでは、主要メンバーではなく、あのアルバム「ホテル・カリフォルニア」の張り詰めた一分のすきもない構成の中で、ひとり「どこ吹く風」みたいな自分流の曲を2曲も!ぶち込んでいた、ファルセットの高音が出せるベーシスト、ランディ・マイズナーの曲である。
「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」は、アルバム「ホテル・カリフォルニア」の前作、「呪われた夜」の中でも、屈指の名曲であり、イーグルスの全曲の中でも、かなり上位に食い込むだろういい出来のナンバーであった。
達郎氏は、とくに、あの曲の最後にサビを繰り返すときのドドドドドドという盛り上がり方が、いわゆるビーチボーイズ風の、ビッグ・ウェイブ砕けるサウンドということで、まさしく「カリフォルニアの風」が吹いているとおっしゃっていたのだ。
これは、ひとつの見識であり、というか風に対するフェティシズムさえ感じる、彼一流のこだわりなのである。

そして、はっぴいえんどの曲をほとんど作曲していた、アノ大瀧詠一こそ、山下達郎の師匠であってみれば、はっぴいえんどの「風」というのが、いわゆる歌詞上の「風」であること以上に、サウンドとして「風」を志向した音楽を追求していたのは、当然といえるかもしれない。

これを、はっぴいえんどをリアルタイムに体験していた、元職場のM氏は、「グルーブ感」と表現していたが、いろいろ語りだすとまた違う意見も出ようが、この達郎氏の発言と、絡めて考えると、絵画の余白、空間に、そうした空気を見るがごとく、風を吹かす音楽、という捉え方は、いい得て妙であろう。

懐かしのイーグルス(スタジオバージョンしかありませんでしたが、誰かがコメントで歌詞をのせてくれています。)