オバフォーことはじめ・「君の名は?」〜樹の葉は山の言葉だった

昔、といってもまだ学校に行っている頃から、家の近くに山があり休みの日などにぶらっと散歩に行くのだが、いつも通る林道に素晴らしく大きな樹が並んでいて、密かにわたしのパワースポットとしていた。
去年の夏だったと思う。なぜかそれらが何の樹なのか樹になり(いやいや)気になり、あまりに高いところに葉があるので、肉眼では見えず、双眼鏡を持っていき、家に帰り図鑑で調べたことがあった。
インターネットでも最近は調べられるみたいだが、人気のない山道は人も歩いてなく、最近森林ボランティアをはじめて、日本中の里山が放棄されていることを知った。聞く人がいない。
なんとか樅(もみ)の樹らしいということは調べられた。
「君は樅の樹も知らないのか?」とは、今の時代言う人はいるまい。それほど、(知っている人がいたらごめんなさい。傾向として感じていると言う意味で、特別な方はのぞき)われわれは自然に対し白痴同然な知識しか普通持っていない。
昔なら庭に樅や桜や柿の樹があり、四季折々の樹の姿を見て育ち、自然に得ていた知識であったろう。
いまや、ボランティアの名目で、昔からよく歩きには行っていた山の中で遊ぶきっかけが得られたわけだが、それなりに長年続いている活動でもあり、やはりその手の知識は強制ではないがあったほうがいい。
しかし自分の知っている樹はいくつあるだろうか?桜や梅は花がつけばわかるが、葉っぱだけを見せられて分かる方が何人くらいおられるであろうか?
わたしは樅の葉っぱも形も知らなかった。たぶん知っていたのは、杉、桧(ひのき)、松くらいではないか。
わたしが特別無知だとはいままで思ってなかったので、たぶん平均的な40代の日本人の実態なのだろう。
いままで何をしに山へ行っていたのか?目的が違うとはいえ、森林が見捨てられているのも無理はない。
樅の樹を調べたのは、ボランティアで里山に入り始める遠いきっかけだったのかもしれない。
いまは、樹の葉っぱをとって、これは、あれは、あそこのは、みたいに片っ端に調べてみているが、ぱっと見では100%わからない。
スポーツのやり始めと一緒で、ボールがうまく打てず、情けない限りである。
それでもなんとか持って帰った葉っぱを首っ引きで図鑑と照らし合わせていると、種はわかるものである。
便利な本を紹介してもらった。
「葉で見わける樹木(増補改訂版)」(林将之著:小学館刊)という小振りな本でカラー写真で葉の大写しが名前と一緒に掲載されている。
似ているようで決して同じ葉の樹はなく、葉は樹を見わける一番の決め手なのであることが理解できる。
ボランティアのリーダーの方も、これは外国語を学ぶのと一緒だ、と言っておられ、一歩一歩気長にやっていくしかない。
いま森林ボランティアの団体は日本中にかなり増え、約2000団体が活動しているという。
しかし山村の疲弊と消滅はとどまらず、日本中の六万二千の集落のうち4%つまり二千四百の集落が高齢化のため消滅予定だと言う。
林業の担い手は減るばかりであり、プロの林業家は全国で約4万人、50年前の約10分の1だと言う。
かたや地球温暖化防止会議での約束のCO2削減量(6%)のうち3.8%を森林の吸収量で確保するのが、政府目標らしく、そのためには毎年55万ヘクタールの間伐が必要だと言う。
間伐とは杉やヒノキ等の人工林で樹が成長するため、邪魔な樹を間引いていく作業である。日本の山は急斜面でかなりの労力と人が必要な作業だ。
1ヘクタールは10000?つまり3000坪、日本の森林の全面積は2510万ヘクタールであり、間伐対象の人工林はその4割、約1000万ヘクタール。
一年で55万ヘクタールがとほうもない数字であることはお分かりいただけるだろう。
プロの方を増やすのが急務なのだが、過疎の山村で木材需要の少ない時代、それで生活していくのはやはり並大抵ではない。
ボランティアの活動は細々としてはいるが、よくやっているというのが、わたしが触れてみての感じである。

問題は山積みだが、企業が森林再生に取り組み始めたり、行政も府下にいろんな事業を展開している。
ただまだまだ話題性にとぼしく知らない人が多いのが現状だろう。(10年前の京都議定書の頃より環境などの記事が減っているかもしれない)
しかし、わたしの実感として、樹の名前を知ること、そこから森林のことばが聞こえてくる。
古人がなぜことばを「言葉」と綴ったのか分かる気がする。
葉はまことに一つの種にひとつしかなく、また同じ種でもひとつとして同じ葉はない。
葉は樹の言葉なのだ。
日本の植物の種は約4,500種、北アメリカの2,835種、ニュージーランドの1,871種を大きく引き離している。
もともと多かったにせよ、おそらく森林を生活に深く結びつけ、山の樹を伐っては植え、伐っては植えし、里山に多様性を維持し続けてきた結果なのだろう。
(↓とってきた樹の葉)