映画『森聞き』上映キャラバン〜東北ボランティアと第一次産業について

標題の映画を昨年だったが11月に見た。
この映画はいわゆる商業映画や自主製作の芸術系映画でもない、ドキュメンタリー映画で、この映画の鑑賞会はNPO法人京都・森と住まい百年の会が主催していた。
3・11以降、こうした第一次産業の見直しの動きがあるように思われるが、それ以前にこういう先祖代々から伝えられ細々と継承されてきたものを見直す動きは、既にあったものだ。例えば、京都の町屋の保存的な(カフェ、居酒屋やコミュニティセンターとしての)活用やエコ的なライフスタイル提案と衰退している林業の活性化をかねた、従来の薪ストーブに加え、ペレットという新しい木材燃料を使ったストーブ等の普及活動、「地産地消」という考え方で野菜や加工品であってもその人が作ったものを顔を見てその人から買うといった動き等、東日本大震災の前から、行われはじめていたように思う。
自治体の絡みであったりNPOや民間の活動であったり、様々な形でやられているのを、直接や新聞テレビを通じ、わたしは目にすることがあった。
それはわたしが森林整備のボランティア団体と関わっていたからかもしれないが、3・11以降は、この種の活動に対する見方が、前より広がりを持ち、同時に期待値を増したような濃さを持っているように感じる。マスコミの取り上げ方も微妙に、地震で被害を受けた地域の復興と絡めて、強さを増した感じを受ける。

その原因は、原発事故によるエネルギー問題の目下緊急の課題と関連している。しかしそれだけではない。
これらの活動は、わたしの見える範囲だけでいっても、震災支援の情報発信や、ボランティア活動の中心的な役割を果たしていて、いざとなれば便りになる存在として、頼もしく写っているような気がするのである。

前置きが長くなってしまうが、続けると、たとえば、わたしが昨年4月に少し参加した、市民から集めた被災地への個人支援物資を送るという活動は、京町屋をコミュニティセンターとして解放し活動していたNPOの方が主催し、その京町屋で荷物を受付し、仕分け箱詰め作業を行っていた。
そしてこの活動にボランティアで手伝った方たちを対象に、被災地支援の活動を現地でほぼ自前で少しばかり周囲の知人から寄付金を募り、活動的にやられていた方の報告会を実施したりしていた。
その方は、震災前に関東で脱サラして田畑を買い、自分でログハウスを建て移住し、専業農家をやられていたかたであった。
その報告会は、震災直後であったので、あまり向こうの情報が届かず錯綜するなか、かなり実態に即した現状を伝えてあまりあるものだった。
さらにその方が現地で一緒に活動していた行政系じゃない民間ボランティア団体をそこで紹介されていた。その団体は、山用品のトップメーカーであるmont-bellがメイン出資で作った支援団体だった。主に宮城県内の自治体支援が行き届かない場所に、全国から送られてくる支援物資を運ぶ作業をしていた。
京町屋で集めた支援物資も、この団体の拠点(宮城の登米市にある廃校になった小学校の体育館に集めていた。
そして、ここにわたしはほんのちょっとだが行くことができ、そこで物資を運んだり仕分けしたり、その小学校の別の校舎にその4月の時点で設置されていた避難所の方々にケアをしにいったりしていたボランティアの方々が、全国にある自然学校やエコツーリズムといった自然体験教育に関わったりその生徒でかつてあったりする人が多数を占めているのを知った。
山岳会などの登山をする人たちの団体からもたくさん参加されていた。

日本全体から言えば、この種のネィチャーリングというのか、山や海や自然を相手にする第一次産業のプロやボランティアのアマチュアをはじめ、海山の釣りサーフィンや登山の趣味を持つ人たちはかなり少数派かもしれない。
しかしその少数派のなかで、こうした震災支援やいまでもかなり深く現地でのいろんなサポートをしている団体や方々の比率は、非常に高いはずである。
それは、東北の被災地が、自然豊かな第一次産業を主とする地域の比率が高いのと関連しているだろうが、それ以上に、なにかもっと現実的にいま日本が、また世界が抱えている問題、エネルギー問題やそれからおそらく派生しているライフスタイル転換の問題に深く関連した動きの表れと思うのである。

さて、話題を映画に戻しますと、まず会場は長岡商工会の建物にある文化会館で、ホールにはパイプ椅子が並べられ、前の方にスクリーンが垂れ幕に張られていた。
まさに銀幕であり、昔子供の頃、小学校の講堂で映画を見たときもこんな感じだったことを思い出す。

内容は、非常に興味深いものだった。

いまもこうした活動はあるみたいみたいだが、映画で取り上げられたのは2007年から2010年にかけ、現役の高校生が、森に関わる仕事をまだ続けておられる古老を訪ね、仕事の現場に付き添い聞き書きをするという「100人の高校生が100人の森のプロにする聞き書き」のドキュメントである。

前に、テレビで「書道甲子園」とか「けいおん(主に女子による軽音楽つまりバンド)甲子園」とか、現役高校生が野球以外の文化系の科目で全国大会をやっていて、それを「○○甲子園」とネーミングしているのを知った。さしずめこの場合は「森聞き甲子園」とでも言うのだろうか。

この映画では、東京、北海道、三重県、宮崎県の撮影当時現役高校生が、それぞれ一人の森のプロに聞き書きするのを四者四様にカメラに収めていく。

うろ覚えではあるが、たしかこうだった。

東京の高校生・・・飛騨の伝統茅葺(かやぶき)職人
北海道の高校生・・・北海道の山奥の樵(木曾、だったかもしれない。。。)
三重県の高校生・・・奈良の杉の枝打ち職人
宮崎県の高校生・・・宮崎の焼畑農業

この4人の森に関する仕事に何日間か「弟子入り」し、その仕事の内容を実際に体験しながら、取材して、文章にまとめるのが、「森聞き」という活動で、その模様をドキュメンタリー映画にしている。この森のプロのうち、宮崎の焼畑農家の方のみ女性であった。

実際に現地で体験作業につく映像の前に、それぞれの高校生がなぜこの聞き書きに参加したかを尋ね彼らのこの聞き書きにたいする思いを訊くインタビューが写った。さらに、彼らの家族がそれについてどう思っているかについても、一部取り上げていた。

たしか、東京と宮崎県の高校生は女の子で、どちらも受験を控えているようだった。しかも、宮崎県の女の子の学校は全寮制で、かなりガンガン受験勉強をシステマチックにやっている学校だった。

かたや、東京の女の子は、普通の高校みたいだったが、お母さんは、しきりと大学への進学を娘に勧めており、この「森聞き」に参加することもどちらかといえば反対していた。ただ、この東京の子は、宮崎の全寮制の女の子のようには、受験まっしぐらという感じでなく、あきらかに進路について迷っていた。そして、大学へ行き、企業へ就職するという普通のルートに対する疑問をインタビューで表明していた。

それぞれいろんな動機はあったかと思うが、一番進路についてはっきり決めていたのは、北海道の農家の子供であった男子であった。彼は、すでに学業の合間に、自分の家の仕事の手伝い、ジャガイモの収穫をしている場面が写されていた。彼は、将来、家の仕事をすると決めていた。ただ、この映画の取り上げた森の仕事とは直接は関係はないが、その仕事も知ろうとしていた。

この北海道の高校生の母親が、インタビューに答えていたが、「森聞き」については賛成していた。実際に、第一次産業に従事しているからだろう。林業と農業は密接なつながりがある。(林業が壊滅的に不振な現代はともかく、その二つを兼業されていた農家が、日本全国かなりたくさんあったと思われる。)

宮崎の女の子と三重県の男子は、上記二人のような積極的な動機というより、何か学生時代に達成感のある物事をやりたい、というようなものだったように記憶している。特に、三重県の男子は、かなり学生数の少ない地域の学校へ通っているようだった。この男子の就職先はしかも決まっていて、森聞きの後、地元のたしか工場みたいなところで、機械を動かす技師の指導を受けていたり、フォークリフトを運転しているような映像を覚えている。(間違いだったらごめんなさい、、)

彼らが、聞き書きした「師匠」の仕事というものは、はっきり言ってもうすでにかなりなくなっていて、かろうじて残っているものについてもやがては消えゆく種類の仕事である。4人とも、高齢で後継者がいない。

この映画は、それら残された貴重な仕事の存在を、現役の高校生にあらためて体験させながら、知らせ、それらについて彼らがどういう考えを持ち、その後、彼らの人生をどういう形で送ろうとするかについてその一部を見届けるというもので、このユニークな「森聞き」という活動を、うまく伝えていた。

さて、そこで、また震災後の現代日本に戻るが、こういった第一次産業の状況は、一段とじつは不安な状況におかれている。その、第一次産業ならではの被災地支援の実績とはうらはらに、福島の放射能汚染とTPP問題は、これらの第一次産業を今後どう立て直していけばいいかに深刻な足かせを与えかねない。

第一次産業の存在が、こうした緊急な災害に対し、果たした功績はおそらく非常に大きいはずである。電源の喪失、暖を取るエネルギーの補給困難、食品流通の断絶、これらに耐えられるのは、ひとえに第一次産業の中心である基本姿勢、自然のなかで自然と共存するという思想であるし、その長年蓄積された、自然の中で生きるノウハウ、道具、知恵、仕組み、であることが、今回の震災のあと、かなり痛感されたことは、間違いない。エネルギー自給も含め、食品や水や人的資源なども含めた自給自足が、災害の多い日本には、セフティネットとして機能することを、もっと研究すべきであると思う。

この意味で、何とか、地震前から細々とあった第一次産業への見直しの気運を消さずに盛り上げ、ライフスタイル転換の契機とし、企業や行政も、日本に伝統的にあった森や畑の仕事の安定を図り、さらにその従事者を増やす政策をぜひ行ってほしい。

現実的には、国際的な金融危機を原因とする経済不振から、国際競争力強化を名目として、TPP参加、原発の平常化が、この国のとるべき道という政府判断がくだされつつある。経済復興が、被災地復興とつながるという確信があると思われるが、そういった「見かけ」の復興をわれわれが本当に望むのかどうかの、もっと根本的な議論の場が、まったく政治になく、福島の放射能汚染地域からいまだに避難勧告も出さず、また検査も満足に行わず、避難した人たちの生活保障もおぼつかない対応を繰り返しているのは、本当に由々しき問題である。