「放射能について知ろう」勉強会の報告と実施のいきさつ

先日、ご案内しました標記勉強会、無事終了しました。ご参加いただいた方は、のべ人数で7名と数は少ないながら、皆さん熱心に聴いていただき、ほぼマンツーマンに近い形だったので、ご質問に答えるというスタイルで、わかるまでゆっくり話を進めていきました。(そのため予定していた内容のたぶん二割くらいしか話せなかったかもしれません、また続きをできればしたいと思っています。)
参加者の方より、内容というより、この勉強会の趣旨、目的や実施した理由(どれも同じ意味か…)について、いくつかご質問やご意見を頂戴しました。
この場を借りて、それにお答えしたいと思います。
(この件、勉強会の新しい案内の際に、少し書き直しました。こちらをご覧ください→2011-08-14 - 為才の日記

まず、今回勉強会をやってみたく思ったのは、福島の原発事故以降、たくさんの情報がマスコミからふんだんに流れてきて、あふれそうな状況だったからといえます。
それらの情報のなかには、本当にその情報が自らの死活問題に関する重要な指標となるものとそうでなく、緊緊には必要ないが、たとえば今後の原発の存続や非存続をめぐる各種各様の意見など、要するにたしかに切迫はしているがただちに死活問題と言えない情報があると考えます。
しかしその区別は意外と容易ではなく、情報の森の中からいちいち見分けてかつ自分である程度判断せざるを得ない要素の情報が多いように感じます。
特に、小さいお子さんのいらっしゃるご家庭には、必ずや死活問題ととらえられる放射能の内部被爆の問題は、インターネットでかなり重要かつ有用な情報を、掲示板に書き込まれ、共有するといった素晴らしい方法が実行されていて、それらは、なんとなく「自衛」ということばがしっくりくるように思えました。
この問題には、風評被害のファクターがあり、ほんとうに判断が難しいわりには、結果がかなり深刻な事態をまねきかねない、高度な決断を要するもので、はっきりいって、これという答えがばんと出る問題ではなさそうなことだけは確実な、やっかいな悩み多い問題です。
かなりな方が神経質になりノイローゼになられている方もいらっしゃるとうかがうのもうなずけます。
それは、ひとえに放射能被害がいままで国内であまり問題とならなかった日本で、空前絶後の事態が発生し、経験則でのガイドラインはあのチェルノブイリ原発事故の後遺症などからわかるといったようなことしかなく、それさえいまだ、放射能半減期等がかなり長期に及ぶやっかいな性質のため、事例を25年以上経ったいまでも研究中であり、誰も決定的に正しいことを言っていると言いがたい現状であることが、原因でしょう。
そして、それは同時に風評被害や情報の氾濫といえる現象をまねく理由だと思えました。
今回、勉強会をしようと考えたのは、自分でもし判断を迫られた場合、その判断の基礎となる知識はなんなのか、それはどういう原理からそういえるのであるか、それが少しながらでもわかれば、それら情報を読み取り自分で判断をするときの助けになるのではないかと考えたからです。
わたしにとっては、友人の西村さんから、その知識がだいたい基本的には中学の理科の知識であり、少々難しいものでも高校の物理化学までの知識の一部があればいいような話を聞き、たしかに学校で習っていたかな、ということをうっすらと思いだし、衝撃を受けました。
われわれは意識せず、科学文明の最先端の技術を利用した社会に生きている、その自覚をまったくといってよいくらいしていないのではないか、すくなくともわたしはしていませんでした。
わたしは今回の地震はわれわれが暮らしている社会のその「本質」を多くの方に思い出させたのかもしれないと思いました。
その「自覚」は、この社会そのものからいまは逃れようがなく身近なものとして違和感なくそのなかにいる自分自身の自覚でもありました。
そこからどう行動するかを、わたしたちが考えるためにも、まずその自覚を養うことから、かなり時間がかかってもはじめた方がいいかもしれないと、考え、この勉強会を西村さんと相談し実施してみました。

ついでに言いますと、普通こういった勉強会は、地震後かなりの数の団体や機関や個人で実施されていると思われます。
それらの多くはたいていは、有名無名の専門家、つまり大学の研究者や、電力会社あるいは電力設備の大手技術メーカーの研究者などを呼んで行われています。
それは当然そうなることで、情報の信憑性は高い世評と表裏一体であり、それら専門家の方々の言うこと書くことの確かさは実績に裏打ちされています。
マスコミに登場し、各種各様のコメントをされているのもそういった方々であり、いまでは書店に行くと、コンパクトにその方がたの見解が、ふんだんなデータとともにまとまって本になったりしています。
ただ、それらの本の中には、その種の情報を読み解くための、放射能関連の科学用語集などもあり、かなり分かりやすいものが出版されています。
わたしたちが、勉強会のテーマにしたのは、その種の用語解説的なことでした。
それらは、専門家の話したり書いたりする情報以前の情報で、たぶん専門家の方々は、ある程度その知識を前提として、書かれたり話されたりしているのでないかと考えられます。(初歩から説明していると大変時間がかかってしまいます。)
たしかに、その種の情報は学校で一度習っているから、かなり日進月歩で新しい情報で補足する必要はあるでしょうが、おそらく理系の専門家の方々にとっては、基本はあって当然?なものなわけです。
ベクレル、シーベルトの単位にしても、数値の危険度はわかるが
、それらの原理、意味するところが果たしてどんなものなのか、われわれの多くは、失礼ながら知らないんではないかと、類推されます。
もちろん、結果として温度の測定値のようにわかれば、原理は知らなくてもよい、という見解もあるでしょう。
しかしわたしたちの社会は、とくに昨今の「理系離れ」が地震直前まで問題化していたほど、それらの知識をあまり知らなくても恥ずかしくないと感じ、どちらかと言えば不要な知識として、法律や社会科学や漢字、英語などより重要度の低いものと認識されていた傾向が、今思うと、という程度ですが、あったように感じました。
しかし決してそれらを不要とは言えない事態が、残念と言えますが、起こったように思えます。
流れに一石を投じる、というより、流れに乗ってしまっている気もしますが、理系知識の復権を、勉強会の目的のひとつとして、付け加えられると考えます。
最後に、ある方からいただいた意見に、このブログにも掲載した当初の勉強会の案内だけをみると、現在放射能被害を出す元凶の原発に対して、どうアクションしようとしているのかわからない、といった、おそらく不満の意見をいただきました。
たぶん、先にあげたような、原発事故を契機にした多数におよぶこの種の原発放射能に関する勉強会は、だいたい反原発脱原発の立場や意見を表明し、それについて意見を闘わせたりいろんなファクターを検討しつつ、ひとつないし複数のアクションを鮮明にしてゆくための場、といった性格のものが多いように思われます。
いま数々の論壇雑誌上で、あまたの論客によるその種の意見の論文がかなりの数出回り、かつてないくらいの活気を呈しています。
たしかに、本当に必要な勉強は、結局はわれわれの今後に関わるそういったエネルギー問題の大極的な国家指針についてであることは言を待ちません。
しかし、いまわれわれのやる勉強会でやるには荷が重すぎ、それはゆくゆく科学といまの現代文明の問題として考えて行きたい思いはありますが、あえて触れないで、放射能にまつわる物理学と化学の基本原理について、学びなおすということに限定しました。
それがひいては原発核兵器に対する意見表明から逃げることや、自らを透明にし、疑えない現代科学の理論の絶対性を盾に、自分達の誤らない正しさを誇っているのでは、というそしりを受ける危険はあり、大いに悩むところです。
いずれにせよ、わたし(たち)の今後のテーマとして、科学理論というものが、いわゆる「哲学」の問題、つまり世に言う「真理」の問題とどう関わるのか、というものがあげられます。
つまり善悪の問題は人文科学(…これも考えると妙な言葉ですが)にまかせ、いわゆる理系の科学は、純粋に善悪の問題を離れ真理なのか、という哲学的な問題があります。
それは別々に論じられるべき問題なのでしょうか。かなり一般的には科学はある種の絶対性を帯びているように思われます。
しかし、たとえば核分裂の原理(の発見)と原理の応用:それを利用した原発の技術とは、いったい、きれいに分けてべつべつに考えられるのか、という、今回勉強会をしてみて感じたわたしなりの課題があります。
即断でわかりきった問題でしょうか。科学者の方はおそらく明快にお考えでしょう。
しかし、わたしにはわかりきったとしてしまえない事態が、いまの文明に起こっている気が、なんとなくしています。
が、これに関してはいまはなにもこれ以上いうことはできず、今後の長期の課題とする次第です。