2012.2.5朝日新聞(ニュースの本棚)『連合赤軍化する現代日本』鈴木邦男 2012.6.17放送 たかじんのなんでも言っていいんかい〜連合赤軍事件、三島由紀夫特集・若松孝二監督出演

どうもパソコンの調子が悪く、携帯から最近更新していて、誤字脱字が多いみたいです。読みにくい箇所あるかもしれません。申し訳ありませんが、ご了承ください。
さて、前回紹介した「居場所」の問題をもう少し考えてみたい。。
「居場所」という言い方は、たとえばわたしが学生の時1980年代にはまだなく、かなり最近になって、新聞雑誌などでよくみかけるようになった。
それは「居場所」がない疎外感を持った人が増えているからだろうが、昔も集団に疎外感を持つ人はそれなりにいたと思われる。
しかし彼ら(わたしも含め)に「居場所」がないわけではなかった。
おそらくアートの世界や才能で生きていく世界においては、現実社会に疎外感を持っている方が、現実に馴染んで悩みなく楽しく過ごしているよりも、正しくよいとされている雰囲気があった。
現実社会になんとなく違和感や疑問があるからこそ、芸術や音楽など非現実(フィクション)のフィールドに惹かれ、そこに自分の才能を賭けてみるという動機が生まれる。
明治・大正・昭和時代を見ても、芸術家はアウトサイダーだったし、そうであることを悩んだりしたことそれをさらに作品に反映させることはあっても、それを拒否したり、問題視したりすることはなかったろう。
つまりアウトサイダーであることが、現実社会の批評と考えられていて、現実社会側からも不可避の必要な存在と考えられていたのではないか。
変わりものが集団にいて彼が集団から付かず離れず批評的な形で関わり続けることは、いわばそれは鳥が空を飛ぶようにとまではいかないかもしれないが、猫が ときどき爪をかくように普通なことだったろう。
しかし、オウムが発生し勢力を拡大していった時代を考えると、その現実社会とアウトサイダーの関係が微妙に均衡を失い、一方に大多数が傾き、少数派を排除し叩きつぶすかのような状況が増えてきたのではないかという気がする。
これは80年代以降のアートの商業化やその頃から注目されてきたコピーライターという職業、ポストモダンの思想などとも密接に連動した動きだと思うが、たとえば学校でいじめが増えはじめたことなどとも関係しているだろう。
しかし大きな転換点となった事件は想定できそうな気はする。

先日(前回)紹介した京都新聞2011.12.5「オウム裁判終結(下)」星野智幸氏の文章はこう結ばれていた。

(オウムの地下鉄サリン事件)以来、この社会では、集団で誰かをバッシングすることで自分を守ろうとする生き方が、標準となった。行き着く先は、すべての人間が完全に居場所を失う社会である。…オウムのころ以上に居場所のなさが極まっている現在、さまざまな形で暴力を肯定する教団や思想集団に人が集まっていくのではないかと、私は危惧している。
(京都新聞2011.12.5「オウム裁判終結(下)」)

この文章から連想される思想集団が、オウム以外にもいまから40年前あたりに存在した。
連合赤軍である。
星野氏が危惧するような思想集団ではじめからあったわけではなかったろうが、結果としてそうなってしまった。
そしてそれはおそらく星野氏が指摘する異なる集団や考えの「居場所」を奪い排除する社会の出現を、オウム事件以前に、暗示する最初の事件だったかもしれない。
その意味で、あさま山荘の事件は、以後のオウム事件や「居場所」を考える際、かなり影響を与えた源として、重要であるだろう。

2012.2.9朝日新聞の「ニュースの本棚」にて評論家の鈴木邦男氏が「■あさま山荘事件から40年〜『連合赤軍化』する現代日本」という一文を寄せられている。
(ちなみに今年はあの事件から40年目らしい。わたしは8歳で白黒テレビでこの事件のニュースを見た思い出がある。)

あの事件で左翼は終わった。「革命を夢みること」は「犯罪」だと断罪された。それが警察、マスコミ、国民の「総括」だった。では、あの事件をただ忘れたらいいのか。「革命」を取り上げられた、その後の若者は幸せだったのか。…
…40年前は、ただの「悪」だったし「犯罪」だった。だが、その中には、革命への夢も希望もあった。愛もあった。〈全て〉があった。それが極端に走ったが故の悲劇だった。若松孝二が映画『実録・連合赤軍』を撮ったのも、山本直樹がマンガ『レッド』を描いたのも、そこにひかれたからだろう。
 しかし今、それは忘れられ、「負の遺産」だけが受け継がれている。閉鎖的、排外主義的で、人の話を聞かず、異なる存在を許さず、感情的に罵倒し、小さな同一性だけを守ろうとする社会。まさに現代は、「連合赤軍化する日本」ではないか。

(2012.2.9朝日新聞「ニュースの本棚」鈴木邦男あさま山荘事件から40年〜『連合赤軍化』する現代日本」)


つまり、あの事件以来、活動の極端な先鋭化により、「居場所」を敵に与えず、異なる存在を認めない、あさま山荘に立てこもった「連合赤軍」を、われわれは模倣してきたわけなのだ。そう鈴木氏は言う。
これに関連し、なんと昨日職場で昼休憩中テレビをつけたら、標記の「たかじんの…」(ただたかじんさんは病気療養中で出演していない)で連合赤軍三島由紀夫の特集をしていた。
そして鈴木邦男氏が、上の記事で言及していた若松孝二監督が出演されていたのだ。
それだけでなく、元オウム真理教信者で、オウム事件のとき、テレビのワイドショーで激しいパフォーマンスを繰り広げ、教団側からマスコミにコメントしていた・あの上祐氏もオブザーバーとして出演していた。

若松監督は最近、三島由紀夫のあの1970年11月25日の市ヶ谷自衛隊駐屯地での自決を描いた映画を撮られたらしく、番組では、近々のオウムの高橋容疑者逮捕も踏まえ、いったい三島事件、さらに連合赤軍事件とはなんだったのか、について特番的に(ショー的に)考察をしていた。

見られた方はわかるだろうが、番組では、10名くらいのパネリストにそれぞれ質問をして、その回答を書いたパネルを一斉に掲げさせ、司会者がその回答の中身をパネリストに訊いて確認していく。
質問は「三島は何をしたかったか?」「連合赤軍事件とはなんだったか?」の二つだった。(途中から見たのでその前にもいくつかあったのかもしれない。)
連合赤軍事件には否定的な回答がたくさんあり、田島直子は「非常に幼稚な未熟な人間が『革命』という言葉だけで舞い上がり狂ってしまった事件」とコメントしていた。
また「人間は権力を持ち人を支配するようになると、その権力者に媚びへつらい抵抗できずに、悪い行為をしていってしまう『組織』を必ず作ってしまう。オウムがそうだったように」と言っている人もいた。

かたや三島についてはいろんな意見があった。
くわしくは覚えていないが、三島が呼び掛けたクーデターを自衛隊の連中がほんとうにやるとは三島は「本気では思ってなかったろう」といった話から、「じゃああれはなんだったのか?」と再考し「作家としてやりたいことはやりつくし、脱け殻となった自分の死に場所を探していた」とする意見も出た。
宮崎哲哉は三島が自決直前に雑誌に発表した文章を引き、「戦後日本の否定」という結論を出していた。
「日本を真の独立国にするため憲法改正自衛隊を軍隊にしたかった」という意見もでて、同種の意見は多かった。
最後に若松監督がこういうことを言っていた。
「あのころは右も左も真剣に日本のことを考え、命を賭けていた。そういう意味では右左に違いはなかった。思想のことよりも、いまはなくなってしまったそんな生き方を映画で考えたかった」
若松監督自身は、当時「右でも左でもなくその中間にいたから、右や左のなかにいる『本物』がよく見えた」と言われていた。
三島についてはしかし、当時は「クーデターなんか自衛隊は起こしっこない、バカなことをしたもんだ」と冷めて見ていたが、映画『連合赤軍』を撮っているうちに、考え方が変わったという。「彼は本物だったのではないか」と。
三島が、自分のシンパである若者と自決直前に結成した「盾の会」の主張は、暴力テロを認めるものだった。こうした三島、赤軍の事件をめぐる、話はかなり物騒だ。しかしながら、結局いままで日本で革命に成功したのは明治維新だけだが、しかし、あとから「維新」と定義し歴史に加えたのは薩長の明治政府であり、その「維新」の実態はクーデターやテロのオンパレードだった、そんなことを書いた半藤一利氏の文章も番組では紹介していた。
連合赤軍事件」は、最初に紹介した記事で鈴木氏がいうように、そういった暴力とともに「革命の夢や希望」「愛」「〈全て〉」を、社会から封じ込め場外に追いやった事件だったのだろう。
そして三島は、そういった時代の流れにあえて一石を投じるべく、暴挙と言える行為に身を投じたのかもしれない。
そういう意味では、たしかに右も左もない…。
番組では、ひるがえって現在の日本の政治、若者はどうなの?という感じで、少し若者を挑発してみるニュアンスも感じられたが、さすがたかじんの番組だと思わせる危険な匂いもあった。
全体的に、かなり練られた、わかりやすく、かつ考えさせられるいい番組だった。
「われわれは暴力でなく言葉を使ってテロをしなければならない」みたいなまとめがあったが、最後に書いておきたい…。
鈴木氏が述べている「閉鎖的、排外主義的で、人の話を聞かず、異なる存在を許さず、感情的に罵倒し、小さな同一性だけを守ろうとする社会」で、連想するのはマスコミである。とくにテレビのニュースショーは弱いものいじめの典型で、今回のオウムの一連の事件を回顧する報道が大手新聞をはじめいろんなメディアで報じられているが、オウムを追い詰めたものがほんとうになんだったかまで探るものでは、残念ながらない。
マスコミが、自分達が正義だと自らを省みず攻撃を続けるだけでは、糾弾するものをいたずらに増やすばかりだろう。
もちろんいい番組もある。
しかし昼間にやっているワイドショー的な視点は、ステレオタイプであり、視聴率がとれなかったりクレームを受けたりするのを怖がっているとしか思えない。
まさしく大衆迎合ポピュリズム)であり、それこそが若者を追い詰め、またそれに対し三島が異議申し立てしたのではないかと思うのだが。