3月12日の日記

夜勤明けで休み、朝6時に帰るとき、もう空は明るいのである。ほんの半月前はたしか6時はまだ真っ暗だった。
しかし寒さはまだ朝方は厳しかった、この季節の寒さは薄く鋭い。
真冬のびしびしと寒い、鈍い強引な感じと異なるが、なめてはいけない。身体にはどちらがマシなのだろう。
天気がよくて午前中早めに目が覚めた。洗濯もせねばなるまい。ふとんを干しにベランダに出たら、つい最近まで枝しかなかったサンシュウの木に黄色の花が一斉につきはじめている。春はたしかに、来たのだ。昨夜は後ずさりしていたにせよ。
朝食にうどんを作って食べた。そのだし汁が鍋に残っていたのだが、母が昼にあたためて吸い物として碗にいれ飲んでいた。なんだが可笑しい。
買い物に連れていけというので、区役所に行く用事があったので、天気もいいので行く。
最近京都市は(どの自治体もそうかもしれない)ごみを減らす呼び掛けをしていて、あるイベントで区役所でお菓子のパッケージやトイレットペーパーの芯など固めの紙を集めてリサイクルしていることを知った。
ごみも量が少ないと行政指定のごみ袋が安いやつで済む。せこい考えだがとにかく、せっせと厚めの紙ごみはすぐ捨てずにを大きめの紙袋に入れていたらすぐに一杯になった。
邪魔になるので早くそのイベントでもらった紙に書かれていたそのリサイクル紙ごみ(雑紙/ざつがみと呼ぶらしい)を回収する日を、心待にしていた。それが今日だったのだ。
実は先月も同じような夜勤明けの火曜日にあったのだが、その日は寝過ごしてしまったのである。
ためてしまった以上、処分したいので一ヶ月も待ったわけだった。
仕分けは特にせず固そうな紙類やダイレクトメールはがきなどごちゃごちゃに紙袋に入れただけだが、そのまま受け取ってくれた。
やっと片付いたわけだが、しかし最近ゴミを出すというこんなことにさえ、昔なら雑というか気にさえしていなかったことが、いろいろ区分け整理され、手間がかかることになった。いまだにビニールごみと紙のごみが母には区別できないのを見ると、むかしはゴミはなんでもかんでも一緒に捨てていたのがわかる。
しかもそれでなにも気がとがめなかった。
いまは妙に気がとがめる。大気汚染しかり、瓦礫ゴミは、一緒にするわけにはいかない深刻な問題ながら、しかりである。
いろいろ細かく気を使わないといけないことは増えこそすれ減りはしない。
わたしの区の区役所は最近移転し新築されたのだが、前よりうちには近いのだが、一般的には交通が不便な場所にあるせいか、車が多く駐車場待ちの車が列を作っていた。駐車場は広めなのだが追い付かないのだ。
わたしは待たずに路駐しハザードをつけてゴミのみ急いでもっていったが、窓口に用がある人は車を停めるのが一苦労で、気の毒に感じる。

買い物から帰ってから、久しぶりにご近所の方に以前お世話になったことのお礼が済んでなかったことを、なぜだか急に気になりはじめた。たまたま、わたしが家を出るとき道でその人と出くわしたのだ。
そのときも買い物してるときも、うっすら気になりはじめ、それらしきことを半分想定し買うものを選んだつもりではあった。
しかし本当に今日行くかどうするかは、帰ってからも半信半疑だった、、。
しかし、しだいに、そのレベルが実際にいかないといけないな、というポイントを過ぎていることに突然気付いた。
かように非常にわたしの行動は鈍い。いつも決心が身体に行き渡るのに時間がかかるのだ。
性能の悪いドライブでCDをコピーするみたいなものだ。
おまけにお礼に行ったのに逆にもらいものをしてしまった。しかもわたしが持っていったわずかな量のものより多くの、その場返しの返礼を受け取ってしまった。
わたしは本当に人になにかをあげるのが苦手なのだ。
いつもちょっと少なすぎたりかなり少なすぎたり、返ってきてそれに気づき、恥ずかしい思いをする。
えっ!こんなに、というくらいにものをくださる人がたまにいるが、そういう人は、どれくらいの量が人に喜ばれるか、よく察しがつくのであろう。
わたしは毎回間違えてきたように思えて仕方ない。
逆に、思わぬ今日みたいなこんなに!といったもらい方をすることの方が、考えると多かった。
やはり少し多目に渡すのが礼儀のように思える。
いずれにせよ、悩むところだ。
夜にもうどんを作ってたべた。すぐに食べれ熱いのがミソである。思い付きでスーパーで買ったさばの刺身の切り身と大根の千切りを載せた。
ところが味が薄く、やはり料理にも、そういう性格が出ている。ううっ。