夜中に眼が覚めた(Nさんのこと)

夜中に目が覚めた。

どうも静かすぎるように思い、目を閉じて原因をさぐっていた。土曜の夜だからだろうか。月はじめの連休中も、夜はいつもよりひっそりしていた。

昼間あったことを思い出した。

同じ会社で働いていたNさんが、お亡くなりになったという。

わたしが就職後ずっと勤めていたその会社は、4年前に同業他社に合併されて、部門単位で形式的には残っているが、いまはなくなってしまった。Nさんもわたしもそのときに辞めて、他の方同様違う道を進んだ。

昼間、当時の上司と、わたしと同じ支店(学校だったので○○校と呼んでいた)の同僚のMさんと一緒に、Nさんのご自宅にお悔やみにいった。式は、ご家族の方だけで5日ほど先にすまされていた。


久しぶりに上司と会った。Mさんとは、時折会っていた。今回のこともMさんが誘ってくれた。

上司は、Nさんの奥さんを前に、「まだNさんは三途の川を渡ってないですからね。近くで見ているはずですよ」と話していた。前から場の空気を和ませるのがうまい人だった。

眠ろうとしながら、その話をわたしは思い出した。

Nさんが見ているのかもしれない。

それにしても、、、。奇妙な静かさだった。

すると、音が聞こえてくるのに気づいた。同じリズムで、高いような低いような声か息の音?もしかして、隣で寝ている母が苦しがっているのではないか。わたしは不安になった。

しかし、どうも息の音ではないようだった。耳を澄まして、窓の外の方から聴こえてくるのがわかった。

ふくろうだった。

 わたしの家の裏に、少し離れているが小さな山があり、夜更けに時々ふくろうが鳴いているのを、たしか連休中に気がついた。

 子供のころ、よく聴いていた鳴き声だが、最近もどってきたらしい。近頃、サルや鹿もよく出て、田畑を荒らすご時世である。

 普段気にならないふくろうの声は、この日は、少し耳障りだった。目が冴えてきて、寝られなくなってしまった。それで、寝るのをあきらめてずっと聴いていると、なにごとかを伝えているかのようだ。

 ホウホウと、等間隔の鳴き方であった。数えると9回だったり、14回だったり、11回だったりした。そうして、だいたい同じ回数ぶんのスパンで沈黙がある。そしてまた鳴き声。12回。沈黙。これが、静かさの理由だった。

 ああ。思い当たった。Nさんは、メガネをかけていたが目が大きく、声に特徴があって、どことなくふくろうに似ていた。

 それを考えて聴くと、ふくろうは何を語っているのか、真剣に気になった。何を伝えているのだろう。

 ふくろうの声は、夜明けまで続いた。

       ※          ※         ※

 奥様の話によると、Nさんは連休中に入院中の病院から一時帰宅されていたらしい。

挨拶をすまし、お茶をいただきながら、一時帰宅のときスマートフォンで撮られたNさんの写真を奥様から見せていただいた。

お孫さんをひざに抱かれ笑っておられた。抗がん剤のせいか、髪の毛がなくなっていた頭が、艶をもって光っていた。意外とお元気そうだった。

奥様は、「本人はなおる気満々でした」と、そのときのNさんの力強い様子を伝えるかのように、力強くわたしたちに伝えられた。

上司は、奥様の前で「日本人の二人に一人はガンになるって言いますからね」と話していた。同じ文字を、あとでわたしは、新聞の「ガン患者力」というタイトルの記事を紹介した1面の見出しに見つけた。NHKの番組でもその言葉を使っていた。

非常に身近な病気になりつつある。また「治る」とも言われはじめた。

 Nさんのガンは、悪性リンパ腫だったらしい。お身体が悪いとはうかがっていたが、ここ2年間くらい、ずっと入院されていたことを、このときにはじめて知った。

 帰ってから、調べれば調べるほど、悪性リンパ腫は、非常に特殊な治りにくいガンであり、Nさんやご家族の方がいかに苦しまれていたか、いまさらだが、忍ばれる。
 なにも知らずにいた自分が、Nさんのことを、今になってこうして思い出深く考えたりすることが、わざとらしく、そらぞらしいが、ご自宅でうかがった話を、こうして反芻することが、Nさんへの供養になればと思う。

 Nさんは、途中入社だったが、わたしのいた会社の支店の責任者をされていた。よく会議で一緒になったり、電話で情報を交換し合ったり、頻繁に接していた。本社へ出張するときも、一緒になったりしたので、わたしには、けっこういろいろ教えてくれ、優しい印象だった。わたしが年下だったせいもあるかもしれない。奥様も、「家では子供や私に優しかったです」とおっしゃっていた。

 上司は、Nさんの上司でもあった。
「Nさんけっこう部下には厳しいところがありましたよ」といって、奥様を驚かせていた。
「そんなところがあったんですね。煙たがれてたんじゃないですか」と、いくぶん冗談めかして答えてくださった。
「もしかして、ご自宅でも、資料とかキッチリされていたんじゃないですか?」と上司。
「そうなんです。年金とか医療費とか、全部きっちりファイルにしておいてたりしました」
「そうでしょう!わかりますよ。すぐ近くの机で仕事してましたから」
「結婚したときから、そういうことはずっと主人がやってくれてたんです。だから、今どうしていいか、ほんとにわからないんですよ。完全に治る気で本人いましたから、なにも書き残したり、してくれていないんです」と奥様は嘆かれていた。

 ふくろうは森の知者として知られる。たしかに、うちの会社にこられる以前はずっと銀行マンだったNさんは、何でも聞けば答えてくれる存在だった。

「本当に、急だったんですよ。一週間前まで、ほんとうに元気でした」
奥様から伺った話によると、最近になってあたらしく投与した抗がん剤が奇跡的に効いた。それは、もともとすい臓がん用の薬で、他の抗がん剤放射線治療をずっと行っていたが、試験的に使ってみようということになり、なされた治療だった。

「これくらいあった(と、指で7〜8センチくらいの円を作られ)腫瘍が、みるみるうちに小さくなったんです」

 腫瘍が腎臓や尿管を圧迫しはじめていたので、尿が出にくくなっていたが、それから無事出るようになった。それまでは、尿用の人工的な管を、身体の外から通して排尿しようという話もあり、それはちょっと、と困っていたところだった。

 それから、Nさんもガンを克服する感触をもたれていたらしい。完全にガンをなくすためには、骨髄移植が有効であり、Nさんはそれに踏み切られた。

 「本人にまったく迷いはなかったですね」と奥様は、おっしゃっていた。

 手術後、症状があらわれた。全身の皮膚が焼けるようにただれ、黒く変色し、ボロボロと崩れていった。そのときの写真も、われわれは拝見した。むごい姿で、いたたまれなかった。Nさんは、苦しそうだった。奥様が、マスクをされ、Nさんの黒っぽくなった頭部に、顔を寄り添わせておられた。

 「可哀想でした。“そんなにがんばらなくてもいい”と内心思いながら、がんばってといい続けました。でも、触れることはできませんでした。触ったら、皮膚がめくれてしまうんです。」気丈に、話してくださった。
 「たぶんすごく痛かったんだろうなと思います。けれど、痛み止めを打たず、主人は我慢しとおして、最後まで、こう目を見張って、必死でふんばっていました。“生きよう”と思っていたんだとおもいます。最終的にお医者さんが、痛み止めを打ってくださったとたん、力がすっとぬけ、昏睡状態になりました・・・・。」
 Nさんの大きな目を思い出す。

 容態の急変は、何が原因だったのだろうか。抗がん剤の副作用か、それとも移植の免疫反応だったのだろうか。移植した骨髄が、「生殖」するまで、最低1週間はかかる。その1週間を乗り越えられれば、自前の血液ができ、身体が再生するのだという。術後祈るようにそれを待っていた最中の出来事だった。

 もともと、抗がん剤とは比べものにならないくらいつらいですよ、とお医者さんに言われていたらしい。しかし、この移植のあとの病変について、病院からはまだちゃんと説明がないといわれていた。

Nさんは、もしもの場合、自分の身体を献体したいと考えられていた、と奥様は言っておられた。それで、その遺志を病院に伝えた。しかし、理由をつけ先延ばしにされたので、「諦めました」とおっしゃっていた。亡くなられた翌日の月曜、家族葬を営まれた。

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 Nさんの直属の部下だったOさんから、亡くなられた先週の日曜日、病床のNさんにメールがたまたま届いたらしい。それに、メールを返さないのは失礼だと思われ、返信された。式に、Oさんは参列された。式のことは、Oさんがみんなに伝えてくれていたが、参列できたのはOさんだけだったらしい。

先週土曜に上司とMさんがお悔やみにうかがうと話があり、一緒にいかせていただくことになった。
 
 Mさんが、自家用車をI市から出してくださった。そこで、上司と落ち合い、車に乗り込んだ。約1時間半ほど走った。行きも帰りも五月晴れのすばらしい天気で、車窓に初夏の光があふれていた。車の中は暑くクーラーがかけられた。土曜なのに、高速道路は混んでなく、スムーズに進んだが、行きしな、目的地近くで、曲がるべき交差点が見つからず、かなり行き過ぎてしまい、逆戻りした。山に近づいていたせいか国道の車線の区切りにポールが立ててあって、なかなかUターンできなかった。

 交差点は、走っていた高架のちょうど真下にあった。見つからなかったわけだ。

 その交差点から、Nさんの家のある住宅地までは、細い道路を抜けて、すぐだった。国道への抜け道らしかった。「M日市町」という大きな駅が近くにあった。

 Nさんの家の玄関に色とりどりの花がたくさん咲いていた。3人とも、はじめてだった。何年も一緒に働いたのに、自宅を知らないのは、なんだか不思議だった。考えると、会社の人たちの家を、当時もいまもまったく知らない。奥様が、Nさんの会社での顔を知らないように、わたしたちは、自分の上司や同僚や部下の自宅での顔を知らないのだ。いたって普通のことだが、なんだかさびしい気もした。そういう意味では、中小企業ではあったが、まがりなりにもわれわれも「戦士」だった。

 「カーナビがないんで、“ばか息子”に頼んでPCから打ち出させました」とMさんはいって、息子さんが用意されたらしいインターネットの道路地図のプリントを運転中見ていた。その地図と一緒に、Nさんからの年賀状がクリアファイルに入っていた。住所を確認するためだろう。ワープロで打たれたMさんへの宛名書きがあった。

 その年賀状をわたしも今年もらっていた。ひょっとしたら、ご家族の方が用意されたのかもしれないが、表にNさんの手書きで「今年はなんとか飲みにいけるように回復したい」とコメントがあった。文面に安心したわたしは、お見舞いにも行かなかった。その本意を、つかむべきだった。
 
 ふくろうの声は、こう言っていたのかもしれない。
 「もっとしっかりしろ」と。また、「過去は振り返らず、前に進め」と。

 いいニュースもある。奥様がおっしゃっていた。Nさんの息子さんが、告別式の喪主をつとめてくれたと。
「自分からやると言ってくれました。病院で主人のことをずっと見ていましたから」
Nさんは、ご家族の中でも特にその息子さんのことを可愛がり、気にかけておられたから、「きっと喜んでいると思います」とおっしゃっていた。
 
49日法要を6月30日(日)に行なうので参列してくださいと伺った。
 
祭壇のNさんの写真は、紺のストライプのポロシャツを着ていた。颯爽とした写真で、奥様が選ばれたという。
 
Nさんのご冥福を、心からお祈りします。