村山由佳『ヘヴンリー・ブルー』(集英社文庫)と宮沢賢治『告別』

 思えばあのころから、彼の瞳は私だけに注がれていた、自惚れじゃないかなんて疑う気も起こらないほど、それは混じりけのない、まっすぐな視線だった。
  それが証拠に彼は、初めは文字を目で追っていてさえつっかえてばかりだった詩を、やがては一度も間違えずに暗誦してみせたのだった。私がその詩を――宮沢賢治の「告別」を、いちばん好きだと言ったから。
  「今でも、そらで言える?」
 と、訊くと、慎くんは首を横にふった。
  「いや、残念だけどほとんど忘れたな。ところどころなら覚えてるかもしれないけど」
  私は覚えている。今でも全部、見ないで言える。
村山由佳『ヘヴンリー・ブルー』集英社文庫

昨日、すこし触れた、村山由佳の作品の一節だ。昨今、恋愛小説が全部ライトノベルになってしまった感があるが、また村山由佳の小説辺りは、その裾野に広がるライトノベルの頂点に近い存在として、多大なる影響を与える作家なのかもしれないが、この作品は、恋愛の痛みと残酷さに、決して目を背けず、体当たり的に突き抜けようとしていて、一気に読めてしまう。
 たしかに、どうも村山由佳には、賢治の童話につきまとう「原罪意識」とでもいうようなものが、見え隠れしているようにおもう。
この文庫には、この作品の「メイキング」ビデオみたいな「あとがきのかわりに」という、村山氏ご本人によるかなり長い文章(当時のブログの再録らしい)が巻末にある。
それによれば、『ヘヴンリー・ブルー』は、『天使の卵』の映画化に合わせ書かれたとか。
原作では、語りは主人公の19歳の予備校生、歩太なのだが、映画では、歩太の年上の恋人の実の妹(歩太の同級生で実は元恋人、、。ドロドロしてるでしょ?)をナレーションに使ったらしい。(配役はあの沢尻エリカ様!)

わたしはこの映画のことはまったく知らんかったが、主人公の元カノの視点から、この『天使の卵』の後日譚を描くというアイデアはそこから生まれたとか。

小説的ではなく、映画のシナリオみたいな文章なのも、そこから来ているのかもしれない。
なお、その作者ブログを読むと、『天使の卵』の続編は、ちゃんとしたもの?としては、『天使の梯子』という作品があるみたいだ。
宮沢賢治の詩が、この作品に印象的に使われていて、むやみに賢治の詩を読みたくなった。
その独特の調べというか、何十年ぶりだろうか、懐かしいものがまだわたしのなかに残っているのを感じた。

 おまえのバスの三連音が
 どんなぐあいに鳴っていたかを
 おそらくおまえはわかっていまい
 その純朴さ希みに充ちたたのしさは
 ほとんどおれを草葉のようにふるわせた
(中略)
 すべての才や力や材というものは
 ひとにとどまるものではない
 (ひとさえひとにとどまらぬ)
 云わなかったが
 おれは四月はもう学校に居ないのだ
 恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう

宮沢賢治「告別(作品第三八四番)/宮沢賢治詩集(新潮文庫))


 こう読んできて、昨日、偶然ラジオで聴いた、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の朗読劇と今読んでいた文庫が繋がり不思議に思われる。
 さらに。
 昨日偶然目にした荻原魚雷氏の書く文章にあった辻征夫という詩人の「それから えーと」というフレーズ。
 その調べが、なんとなく賢治の詩と通じ合うことを感じた。
あらためてその詩を(もう少し長めに)引用します。

隅田川
 いまはない古びた鉄柵に手を置き
 日暮れの残照に黒々とうなだれている
 1965年8月(注:原詩は数字横書き)の鮎川さん
 あなたがぼくに
 はじめて本をくれたのは
 たぶんこの写真が撮影されてから
 ちょうど一年後の夏でした
 本の名は『プレイボーイ入門』
 いつも ぼんやりしていて
 女の子と遊び歩くこともなく
 失業ばかりを繰り返して二十代の半ばを
 フラりと越えてしまったぼくの肩を
 ぽんと叩くような感じであなたは
 <<あげるよ>>と
 ひとこと言ったのでしたが
 あんなに まったく
 役に立たなかった本もありませんでした
 思うに 鮎川さん
 プレイボーイというのも詩と同じく
 底なしの憂愁 輝く快活
 野放図なやさしさと冷酷
 忍耐
 それから
 えーと
 詩には何が必要なんでしたっけ
 とにかくそんな何かが必要なのに
 ぼくにはどれかひとつが
 (それともふたつかな)
 見事に欠けていたものだから
 ぼくはスマートな詩人にも
 鋭く重厚なプレイボーイにも
 なれなかったのでした》
(「(隅田川の、古びた鉄柵に手を置き……)」抜粋/『辻征夫詩集成』)」
荻原魚雷『活字と自活』本の雑誌社


「荒地」の人たちの戦争直後の詩業のはるか高い(深い)達成のあと、その詩業の痕跡は、そのあと生まれた戦後の詩人には、幸か不幸か、ぬぐいきれないものであったろうし、かつ、その後の時代の急展開ゆえに、遺産としてあっても、容易には受け継ぐことのできないものとして、負い目も残すものだったのではないか。

その「荒地」の実質的リーダーだった鮎川信夫を追悼した、この辻征夫の詩には、先行者と後を継ぐ(継げない?)者=われわれの、複雑な関係を、暗に「ものすごくわかりにくい」(荻原魚雷)かたちで示したものとして、わたしには読める。
また、つぎのようなことも感じる。
わたしはまったく辻征夫という方を知らなかったが、荻原氏が紹介するこの詩を読む限り、作者の自覚とは反対に、「荒地」を正統的と言えないかもしれないが、継承したものがあるのではないか、といったこと。
それは賢治や中原など戦前の詩人には見られない〈思想〉、つまり「他者」の存在である。
調べは似通っている賢治だが、彼には「えーと それから」と呼び掛けるべき相手があらわれない。
それは、おそらく「荒地」がおもに日本の詩に、はじめてもたらしたもので、それ以降の詩を書く人たちが、共通の遺産として、使えるものだったのかもしれない。
だが、それをわからせてくれたのは賢治と辻征夫の「調べ」の類似なのだ。
ちなみに、荻原氏によれば、辻征夫は思潮社の社員として、最初の仕事が鮎川信夫の担当だったらしい。