2013年1月27日日曜日 『苛烈な夢 伊東静雄の詩の世界と生涯』林富士馬・富士正晴共著ほか

2013年1月27日 日曜日 晴れ 夜中に積雪 道路凍り、公園、学校のグランドは真っ白。しかし、昼には、明るい日差しに溶ける。

用事があり、むかしよく行った北白川通りに行った後、高校の頃よく行っていた友人の家に久しぶりに行った。そこには、昔、そこに下宿していたという学生さんがどっさり置いていった様々な本があり、わたしはよくその部屋で本を読んだり、その友人とその本で触発された自分の(本の著者の?)考えなどを興奮してしゃべったりした。それがその頃、もっとも刺激的で興味の対象だった。その学生の方には、未だに会ったことはないが、わたしが本を読み始めたきっかけに、その部屋に残された本があったことはたしかである。

この日、その友人の家を辞し、近くのG書房に寄った。すると、その高校の頃の思い出を、ある意味ほうふつとさせる本棚が、立ち寄ったG書房の「古書コーナー」にあり、愕然と(オーバーだが)した。
G書房には棚の一角をいわゆる「ひと箱古書店主」(おおくは絶版になった自己の所蔵本を売る人たち)に開放しているコーナーがある。そのコーナーのある一列棚に並んでいた本を見ると、中野重治のおそらく今は絶版となっているだろう文庫本が2冊(『むらぎも』『歌のわかれ』)、『荒地詩集1958』、糸井重里の各種文庫本(糸井さんと橋本治の対談『悔い改めて』など)、学術本だが『近代詩から現代詩へ』といった本が並んでいて、しばし立ち読む。

なかでも、わたしを驚かせたのは、安岡章太郎の『良友・悪友』(新潮文庫)であった。この本は、そのこの日おとずれた友人宅にしょっちゅうお邪魔していた高校生から大学受験浪人の時代に、わたしがよく読んでいた本であった。(そこでよく見たわけでなく、これはわたしがたまたま角川文庫版を買って、愛読していた。)なんとなく、この書棚に本を出品されているかたは、同世代のような気がした。

その本棚でじつはもっともびっくりしたのは、わたしがいま読んでいる富士正晴の『豪姫』(新潮文庫)が並んでいたことだった。この本も、古書の棚にあるということは、絶版なのだろう。わたしの買った文庫も古書で、カバーがない裸の本であったが、ここにあったのは宮沢理絵の写真のカバーがついていた。どうやら、『豪姫』は、この文庫が出版された1991(平成3)年4月の頃、映画化されたらしい。わたしは、覚えていないが、豪姫を宮沢理絵が演じたのだろう。仲代達也も表紙に写っている。
わたしが持っている『豪姫』の文庫には、1995年2月8日に当時住んでいた長岡天神駅前の古書店で買い求めた書き込みがあった。当時なら出版されてからまだそう日は経っておらず、普通の本屋でも買えたはずだ。(汚れていてカバーもないので、100円の値が鉛筆で書かれている。)
しかし、わたしにはよくあることだが、この本を15年以上も!ほったらかし、今年になるまで読み通してないのである。
それをたまたま、今年になり、なんとなく目に付き、読んでいる最中に、こんな場所でもう1冊の絶版の本に出会うとは。私はすこし店内でその写真を眺め感慨に浸った。

その隣に、同じ富士正晴の名が背表紙に書かれた文庫があった。手にとって見ると、伊東静雄の詩の解説と評伝であった。わたしは、はじめて富士正晴伊東静雄と親しかったことをこの本で知った。
どうやら、この書棚の本の主は富士正晴のファンであったのではないか。この2冊しか富士の本はなかったので、気に入ったものは売らずに持っておられるのかもしれない。
伊東静雄の詩論など、いま読むのもどうかと思われたが、富士正晴の小説の文章にはまっていたので、富士がどんな詩の読み方をするのか興味が出て、買うことにした。
『荒地詩集1958』も手にとって立読みしていたが、これは棚に戻した。

この伊東静雄の評伝と試論がセットになった文庫本は、読んでいるが、まれにみるよい本と思われる。共著の富士正晴、林富士馬の2人とも、生の詩人伊東静雄に親しく接したいわば弟子にあたるようなかたであることを、はじめてわたしは知った。(とくに富士正晴がそうであったということは、なぜかわからないが、衝撃を受けた。意外だったからだろう。わたしはじつは、富士正晴について、あまりよく知っているというわけでもなく、開高健が、自伝的作品『青い月曜日』に、富士のことを久坂葉子と絡めて書いていたのを読んだことがあるに過ぎない。作品を読むのもじつは『豪姫』がはじめてなのだ。)

まだ途中だが、林富士馬というかたの文章と富士正晴の文章がそれぞれ好対照というか、まったく異なるスポットのあて方を師である伊東静雄にしているのが、好ましく感じられる。
林富士馬、この方も詩人だったらしいが、のほうは、伊東のおもに親交の厚かったホウボウの方々(弟子の富士正晴へのものが多い)への手紙や、詩とは異なり伊東本人が「僕ら詩人には文章は苦手なところがある」といっているところの散文にスポットをあて、伊東の人物像を暗闇の中にぼんやり浮かび上がらせようとしている。
映画でもよくあるが、主人公は、画面にまったく出てこないが、他の人からの証言をたどり、写っていない主人公を描く手法である。(昔でいえば『第三の男』的なスタイル)

その反対に、富士のほうは、伊東の詩人として本質的な表現であったところの詩作品にズバッと光をあて、そこから逃げ出すかのような伊東静雄の本質を捕まえて、裸にし、まな板に乗せようとしているところが感じられた。
それぞれの、人柄というより、その作品の方法論を物語っているようである。どちらがいいということはいえず、どちらも読めるところに、こういった本のよさがあるといえるだろう。

わたしは、それを読んで、あらためて、作家の手になる周辺の、つまり作品でない手紙や日記などの文章というものを考える。
つまり、こうしたその作家の日頃の生活人としての考えや人柄を最もあらわすと見える文章が、意外とその作家の姿を消し、空気のような大きな背景としてぼんやり感じさせるのに反し、作品そのもののほうが、作家の人間としての本質を、ものとして手にするように、感じさせる要素があることをあらためて感じた。

昨日、安岡章太郎さんが、亡くなられていたという報道に接し、驚いた。一昨日、家ではどこにいったかほぼわからなくなっている、私がもっとも敬愛する安岡さんのエッセイであった『良友・悪友』を、G書房の古書棚に久しぶりに発見したことの不思議を思い、その念を深くする。ご冥福をお祈りします。