「はてなダイアリー終了」えっ?! 「ビートルズ研究会」に参加

ITに詳しいわたしの友人から「はてなダイアリーが終了しますよ」と教えてもらった。
メールを確認すると、たしかに「ダイアリー」のサービスを終了し、「はてなブログ」に統一し、移行するらしい。
 
わたしがこのブログを始めたころは、「ダイアリー」のサービスしかなかった。

ここにずっと書いてきた記事は、「ブログ」のサイトに移さねばならないのだろうか。

真剣に案内をまだ読めてないので、近く「ブログ」のほうに移行するということのみ告知しておきます。

実際のところ、このダイアリーでさえ、いまのパソコンのスペックでは、非常に動きが悪い。そういった、仕様の変更についていけるかどうかわからない。

インターネットの世界は、どんどん進化していて、取り残されつつある。そんなに高性能なものを求めてないのだが、昔のサービスはどんどん打ち切りになり、それなりのハードを買い換えないと、切り捨てられてしまう。

誰も、こういった動きについて、表立った抵抗をしないものだから、メーカーやソフトメーカーの言いなりといってもいい。

はっきり言って、ブログも書けてないし、ここでやめてもぜんぜんかまわないのだが、昔の記事を見れなくなるのは、困ってしまう。若干だが、昔の記事にアクセスしてくれている人もいる。

結局、仕切りなおしで、リセットすることになるのだろうか。なんだか、詳しく調べる気にもならないが、そのあたりはやるしか仕方ないのだろう。

それはそうと、パソコンの問題はさておき、涼しくなってきて、いままで滞っていた問題が、一気に解決していきつつあるのも事実である。真夏というのは、なぜあんなに問題がたまっていってしまうのだろう。

わたしがためていたのが悪いのだが、きっかけは、先週日曜にあった祖母の3回忌だったのは、確かだ。

幸い、時間を空けて、母の介護をヘルパーさんに任せられ、参加することができた。

かなり久しぶりに、親戚にあって話でき、懐かしい思い出を語ることができた。

その後、この1週間で、いままで問題だったが、なかなか着手できなかったことが、ほんとうにうまい具合に片付いていった。具体的には、いちいちはあげないが、母の体調の病院との相談のことも含め、心配事がひとつづつ減っていった。

それは、たいてい自己責任のレベルで考え、自分のせいでという自覚ばかりあって、ちっとも前に進まない感じのさまざまな事項であった。(このパソコンのスペックについてもそのひとつ)

そういうことって、なぜか一気に動き出すものなのですね。

季節の偉大な力かもしれません。

今日は、ずっと行こう行こうと思いつつ、行けずにいた「ビートルズ研究会」の例会にも参加できた。

ビートルズのデビューから解散までの全シングル版アナログレコードをA面B面1曲づつ、かけて聴いていく一種のイベントだった。

アナログレコードを複数の人と聴く、というあり方は、わたしの中学高校生のころは残っていた、音楽好きの人間の日常であった。

だから、ひどく懐かしく、またアナログレコードが不思議に保っていると思われるその「時代」も、いっしょに聴けた気がした。

ちょっとだけ不思議な話1

先日、夜勤明けの帰り道に、知人の家に寄る用事があった。まだ夜が開けてない時間帯で、辺りは暗かった。真夜中に近く、車はヘッドライトをつけて走っている。

慣れない道なので、たしかこっちから行けるはずだ、と入った道があった。
昼間ならなんということはない道なのだろうが、妙に方向感覚が狂い、迷いながらなんとか知人の家にたどり着いた。

途中どこの神社かわからない鳥居が目の前ににゅーっとそびえ立ち、すこし気味悪かった。 
二、三日して、これは昼の暑い最中のこと。
常はいかないが、年に何回かいく仕事の現場に車で向かっていた。
暑い。ええい近道しよう、と混雑を避け、とった道があった。

なにげなく、そこを選んだみたいだった。進んでいるうちにわかったが、それは夜中迷ったあの道だった。
あ、この道だったのか、と合点がいった。

鳥居は今○神社の鳥居、道は紫○高校前の神社の参道だった。

この間とは真逆に走りながら思った。

「ああ、たぶんあのときの借りを返しに来たんだな」
わたしはこういうとき、そんなゲームめいた感慨を抱く。
なにげなく通ったが印象に残る場所には、なぜか、近いうちにまた訪れてしまうのだ。

しかし、あの真夜中の道は昼間とはまったく様子が違った。昔にタイムスリップしたみたいだった。
あるいは夢のなかみたいだった。

介護ブログについて

こんなささいなことも書いてしまうのがブログである。まして公開するとは。

単に少し疑問に思った程度のことだが、介護する人たちはブログとか書いておられるのだろうか。

いままで真剣に探し読んだことがなかったことが悔やまれる。

この分野の横のつながり、あまりないと勝手に思い込んでいた。いままで一度もそれらしいものを見た記憶がなかった。
ちょっとしたそういうヘルパー事業所が企画されたイベントや、ボランティア団体の誘いはあったが、結局参加するのがこちらの気分次第、時間の余裕次第ということになるなら、まず行かない。

自宅介護者は、要介護者がショートスティとか入院中じゃないと、動く時間がない。(自分のための時間もとらないといけない。)
自然に任せれば、孤立するのが介護の実態である。

孤立、とまで言うほどかと実は思うし、決してひとりじゃなくヘルパーさんやケアマネさんと話したり、相談したりしつつだから、表面上は孤立とかには見えないだろう。自分でさえ、そうは思えない。
つまり状況を把握できてないのかもしれない。

横のつながりと言っても、それに縛られるようでは元も子もない。
しかし、それぞれが持っている体験や情報を、うまく未経験の人に伝えたり、もっと経験ある人に情報をもらえたら、もう少し気が楽になるんじゃないかと思う。
わたしがそれをできたらいいが、なかなか時間と労力が必要であろう。みんなたぶんそうなのだろう。

さて、肝心のわたしが持っている情報が何かと言えばそんな大したものではない。しかし、折々、少し書いてもいいかなくらいのことで、まして最近本体の記事もなかなか更新できない現状ではあるが、すこし意識していきたいと思った次第です。

父の「見送らない」奇癖 祇園祭

今日も京都はたぶん体感的には40℃以上の異様な暑さだ。
祇園祭山鉾巡行を関東の知人が見に来たので、一緒に見るつもりだった。しかし、わたしが急用ができ、巡行には間に合わず、知人も暑さのせいか気分が悪くなったとかで、市役所近くの薬局でOS-1を2本がぶ飲みし、難をしのいだとのこと。
地下街ゼスト御池で会うと、回復していた。わたしはコンビニで冷凍してあるペットボトルを買って持っていき、タオルを巻いて脇の下に挟んだらとアドバイスした。

その後喫茶店にはいるまで外を歩いたが、10分以上歩けない蒸し暑さだった。

知人は夕方17時32分の新幹線で帰るのというので駅に見送りに行った。駅構内の新幹線ホーム下のカフェに二人で少し冷たいものを飲んだ。
わたしはビールを飲んだ。昼間からそんなことめったにないが、夜勤明けだったこともあって気が緩んだのかもしれない。
ホームまで送らず、そこで別れることにした。

それでふと亡くなった父のことを思い出した。
父には不思議な奇癖があった。亡くなってしばらくしてから思い出したのだが、わたしや弟がもう独立して実家に帰っていて、これから帰るというとき、玄関には母だけが見送りに来て、父は決して見送りに来なかった。
じっと居間に座りテレビを見ていた。
これは無視してるのでなく、見送ることを我慢しているみたいだった。そういうことを、するものではない、というなにか教えがあるのかな、とあとから尋ねたかったが、理由はよくわからないままだ。
だが、今日、知人を、入場券で駅に入ったのに、ホームまで送らなかったことで、少しその感覚がわかったような気がした。
父には、身近な人を見送ることへのなにか含羞(がんしゅう)としか言えないものがあったに違いない。
それは、父の世代くらいでおそらくは滅びた日本人のなにか特有の感覚だったのかもしれない。
わたしには居間に一人座り、家をあとにするわたしたちに向けた父の背中がひどく懐かしく目に浮かぶ。
それはたくさんのことを語っているようでもあり、またなにかを教えてくれているようでもある。

いまはまだその一端がわかるにすぎない。

「親問題(おやもんだい)とオウム

今日は雨がひどくなって、はや3日目。
鴨川も近場の高野川も、竜とはこのことか、と納得するくらいおそろしげに濁流をうねらせのたくっている。
桂川ではすでに上流の日吉ダムが満水のため下流へ放水をはじめるとか。
不安一杯な京都市内である。

そんななかオウムの麻原をはじめとする主たる実行犯の死刑執行のニュースがあった。

まだ雨がひどい時間で、わたしは母の通院している病院に薬を処方してもらいに行っていた。
村上春樹の「1Q84」を読んだことのある人なら、あの雷と豪雨のシーンを思い出すに違いない。
思えば、あの事件は、平成という時代の中心に隠蔽されたなにかをあらわしている事件だったと思う。
だが幕引きはなにか妙に気忙しく拙速な印象である。
先日ある話の場に参加して、そこである方が「オウムの事件がなんだったのかちっとも解明されてないのに裁判が終わってしまった」と発言され、その機会を逸したことは、日本の今後に影響する、みたいなことを憂いておられた。

それについて、この場で知ったのだが、昔、鶴見俊輔先生が、「オヤ(親)問題」ということばをよく使われていた、ということを知った。
鶴見先生いわく、オヤ問題とはなにか、それは「解決しなければ生存していけない」問題のことらしい。

わたしはその表現はたしかにわれわれが若い頃ぶちあたった「存在問題」をうまくいい得ていると感心した。
「生存」といっても、それは動物的な生存のことじゃなく、人間的、つまり精神的な「生存」問題である。
むかし「カラマーゾフの兄弟」を読んだとき、次兄のイワンが「大審問官」という自作の詩劇を弟に語るシーンがあった。
そこに新訳聖書の最初にある悪魔がイエスに三つの質問をし、イエスを試す話が出てきた。

そのなかに悪魔がイエスにする質問「おまえがもし神なら、なぜパンをたくさん神の力で作り、飢えた民衆に与えないのだ?」と謎をかける。

エスはどう答えたか。
有名なフレーズ「人はパンのためにだけ生きるのではない」

わたしは「オヤ問題」とはその「パン以外の生存問題」であり、ある意味人間が動物とは次元の異なる悩みを持つ存在であることを語る問題、と解している。

さて、オウムの代表者、今日刑に処された麻原が当時の若きエリートたちを引き寄せたのは、彼が「オヤ問題」について答を持っていたから、いや、その前に「オヤ問題」を語る場を提供したからではないかと思っている。
それが多分にいかがわしい「ジャンクな」(村上春樹)物語であったとしても。
というのは、わたしが学生時代、ちょうどオウム真理教が発足したらしき1984年(わたしは村上春樹がその年を小説のタイトルにしたのは、それが理由だとに思う、ってそんなのは常識なのかもしれないが)、社会には「オヤ問題」を考える気風と、それをみんなで考える場というものが急速になくなり、個人がバラバラにその問題を抱えこむというあり方に、変わったような感覚を覚えているからだ。
バブル直前のあの時代、まずパンのことを考える健康な正直さが妙に新しく、思想や人生論は重く疎んじられていた。

とくにみんなで大事なことを考える機会やそれを磨く場は、痩せ細っていったように思われる。

あの事件は、大きくとらえれば、その時代の流れのなかにあると思われる。

「パンのみに生きるものにあらず」
この言葉は、キリスト教や宗教だけの問題ではない。
もしまだ若者と呼ばれるものがいるならば、かならず彼らがぶち当たる問題、「オヤ問題」と深くかかわる言葉であると思う。

梅雨の手作り市(すみませんが、写真なしです、、)

今日は久しぶりに母の通院している病院に行き、食事介助をしてきた。時たま、配食の弁当を持って出向き、ベッドで食事介助させてもらっていたが、最近忙しく行けてなかった。

介護タクシーが来るまでの間、しばらく時間がある。日により、透析が長引いたりして、時間はまちまちだが、今日はかなりゆっくり時間があった。
看護師さんや、先生に挨拶もできた。

実は、今日は百○○のとあるお寺で毎月開催される手作り市の日でもありました。
そこでここ最近、同じ店で田舎味噌を何回か買い続け、今日は久しぶりにそれを探しにいくという目的も実はありました。
病院の近くなので。
さっそく、行ってみたのですが、今日はなぜかしらお店の数も心なしか少な目で、目当ての店のブースも見つかりませんでした。
一軒、通りがかりに呼び止められたので、ちょっと聞いてみたら、やはり朝雨がひどく、ブースを立ち上げるのが「すごくすごく大変でした」と言われていた。チャイ屋さんであった。紙コップでチャイを飲んだ。
たしかに地面が土が多く、泥になってしまうせいもある。
梅雨は、露店商にはツラい時期なのだ。
客もいつもよりは少な目であった。だが、普通のこうしたイベントに比べたらわんさか人は来ている。
お寺の本堂にやたら人が集まって参拝されているのか。
わたしもたしかあれは2月だったか、住職の呼び掛けに本堂に招かれ、巨大な数珠を回したのだった。
たまたまだったが、手作り市のお客さんが、わりと本堂も参るケースも出てきてるのかもしれない。
本堂の軒を借りて出店している方もいた。コンクリで土台をあげてるので、雨の日はなかなかいい場所なので、ちゃんと店の区画になっているのだ。  
客が少な目のせいか、天然酵母パンを安売りしていたので買ってきた。
だが、また味噌のない毎日を過ごさねばならない。市販の味噌を使う気にならなくなってしまったからだ。
それくらい、手作りの田舎味噌は美味しかった。

すっぴん!月曜 宮沢明夫 日本のプロデューサー3回目細野晴臣さん

さっきまでラジオでやっていた「すっぴん!」宮沢明夫さん担当、で細野さんの話をしていた。
なかなかいい話だった。

YMOが結成され、ヨーロッパツアーに出たとき、細野さんは日本の紙と木の文かと鋼と石の西洋文化との歴史的な隔たり、越えがたさを自覚しはじめていた。
ところが、ヨーロッパツアーでYMOは、「CUTE(かわいい)」と言って女の子達が群がりキスしてきたらしい。
細野さんは、日本のテクノサウンドひいては日本の音楽に含まれているある本質、「鋼」にはない軽さ、ふわふわした魅力に気付きはじめる。

宮沢氏はYMOの本質は、ディスコミュージックと、はっぴいえんど解散後ソロになって細野さんが追求していた「トロピカルな世界」の融合にあり、それを作ったのが細野さんだったと指摘していた。

朝からいい話を聴いた。