「詩はどこへ行ったのか」朝日新聞オピニオン面ほぼ全面谷川俊太郎の日

先日谷川俊太郎さんのインタビュー記事が朝日新聞(2009年11月25日朝刊)に出ていた。よほど「現代詩」について「読まれてない」という、おそらく一般的に詩をわりと文学の上位においていた世代の方々の危機意識のあらわれと思われる。
本屋さんで、昔よく見かけた文庫版の詩集(ハイネや宮沢賢治三好達治などよくあったものだが)をいつからか見掛けなくなって久しい。
まして「現代詩」に触れようにも、その機会足るや、わたしが学生の頃に比べ格段に減っているように思われる。
そこで、我が国で唯一今でも文庫で読める現代詩の詩人、泣く子も黙るあの谷川俊太郎さんの出番になったわけか〜という気がする。
「詩が希薄になって瀰漫(びまん)している感じはありますね。詩は、コミックスの中だったり、テレビドラマ、コスプレだったり、そういう、詩と呼ぶべきかどうか分からないもののなかに、非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を満足させている」(記事より)
と詩人谷川さんは語る。
いつか養老孟司先生が何かの文章に「ワイドショー全盛の時代に誰が言葉なんかを信じるだろうか」と書かれていた。ここで語られる「言葉」とは「詩」ではないかと考えられる。ひいてはつまり「文学」である。
たしかに谷川さんは「コスプレも詩」と言っているが、どちらかというとかつて「ことば」での詩が独占していた「詩情」が世間一般に詩ではないさまざまなものに(コスプレまでに!)広がったということだろうか。
かたや、「ことば」からはどんどん詩情が失われていった。それが詩が、とくに現代詩が読まれなくなった原因の一つかもしれない。
養老先生の前述の文章は、現代においてはことばにおける詩的な意味合いなど誰も顧みず、また求められていない。テレビその他メディアに氾濫している愚劣なことばを見よ、という怒りの表現であろうか。
普段、われわれが単なる記号として使用している「ことば」が、詩人という存在(かつてはいた、というべきか?)の仕事により、どのような過程を経て、「詩」となるかについて、ことばで語ることは難しい。
単に意識的に行替えを加えた文章が即「詩」になるわけでは、小学校の国語ではよく書かされたものだが、当然ながらないからだ。

昔は詩に興味を持つ場合、そのあたり、とくに人気のあるのは中原中也高村光太郎だったが、から関心を持ち、最低でもそこらへんまでは読んだあと、「おっ!」となったひとは、やがて文庫になっている、多くは戦前の作品で文語調、そしていかにも「詩ですよ」的なこれらの詩にはあきたらなくなり、ふつうの現代の口語を使った詩、つまり「現代詩」に触れることになったものなのである。
しかしそのような流れが今の本屋さんには、残念ながら見えない。
かつて80年代中頃、伊藤比呂美さん、井坂洋子さんや、じつはわたしの大学の少し遠い先輩の平田俊子さんらの詩集が登場しまくり、また白石公子なる今で言う「ビジュアル系」の詩人もいた〜いわゆる「女性詩」とよばれるブームがあったが…。いまや昔話か。
そこでかつて現代詩なるもののファンであった人間として、今後、谷川さんのことなどに触れていきたい〜。