大貫妙子ラジオ「懐かしい未来」で聞いた1959年の東京

昨日12/1に、FM放送を車で聞いていた。NHKFMだったが、大貫妙子が話していた。大学教授らしい?内田樹(あとで調べたらバリバリの現代思想の論客であった…)という人をゲストに昔の1959年当時の東京について語っていた。
信じられないことだがまだ東京オリンピック東海道新幹線開通(1964年:私が生まれた年だが)を遡ることわずか5年前、東京の京王線(西の方)一帯は、開発前で田んぼが一杯あり、大貫は夏は川で泳いでいたという。
また内田さんが語っていたが、当時隣近所の家でごはんを食べるのは日常であり、子供は出入り自由であったという。
それに似た事象は私の子供時代にもあり、私は幼児期アパートにいたが、同じアパートのおばあさんの家や一緒に公園に行ってよく遊んでいた思い出がある。
さらに、私の弟は二つ違いであるが、彼は朝誰よりも早起きして、隣の家(アパートだから部屋だが)の宅配牛乳受けからヤクルトを奪い飲むのを日課としていて、しばらく隣の方から申し出があるまで家族の誰も気付かず飲み続けていた。
まぁ、それは少し違う種類の話かもしれない。
その事件のあと、うちはヤクルトではなかったが、ヤクルトに類似した別メーカーの商品を宅配してもらうことになった。
ちなみにそれが発覚した時に弟に罪の意識はみじんもなく、そういう時期が子供にあるのはたしかだ。
ただ、戦後社会にも一時期そうした幼児のような時期もあったことは想像でき、よそのうちの子が始終家に出入りするのを許容した社会というか地域がありえたのだろう。
さらに内田さんが語るには、
「1959年から1960年になる新年のカレンダーをめくるとき、これから未来になるんだ、というものすごい感動があったよね」
とのことだった。
たしかに10年ごとに世代や社会をメモリアルな単位にするのは戦後アメリカナイズドされた日本の慣習といえるが、このときの分水麗は、1999年から2000年のそれに匹敵するか、それ以上のものであった、かのような言い方であった…
さてその内田氏が「兄貴と一緒に半分づつお金を出してはじめて買ったレコード」といってあのスタン・ゲッツがテナーサックスを吹いているボサノバのレコードをかけていた。
先日紹介した村上春樹の「意味がなければスイングはない」にスタン・ゲッツはかなり入れ込んで取り上げられていて、60年代にボサノバブームを生んだのもゲッツの功績だとその本にあった。
さらにリクエストで伝説のロックバンド「はっぴーえんど」の曲がかかった。
細野晴臣鈴木茂松本隆大滝詠一〜やんごとなき方々が作った日本のロック黎明期のスーパーバンドである。
いまから約40年前の音とはとても思えない。鈴木茂のギターソロを聴いていると、今をときめくくるりバンプ・オブ・チキンがやっていることは彼らの続きでしかないのではないか、みたいな感慨を受ける。
その基本的な背景を彷彿とする話であった。
おそらく60年代に小学生でスタン・ゲッツを聴いていた世代が70年代、東京の若者文化のリーダーとなり、いまも伝説のままJPOPに君臨しているのであろう。
その10年後、1980年代に松本隆が作った楽曲、演歌とは無縁な新しい歌謡曲松田聖子により全国に広まることで日本はやはり変わってきた。
それは彼らが子供の頃、やはり確実にやがて来る「未来」を見ていたことを物語る。
それは手塚治虫のマンガの影響もおおきいわけだが…。
しかしたしかに1960年のカレンダーにはそれが見えたのだろう。
そのときに見えた未来と今の日本はどのように重なり、また異なっているだろうか?
これは村上春樹が世代的な自責の念からかよくリフレインするようなテーマだけども…
内田樹さんの本読んでみたい気がしました。
懐かしい未来」〜Longing Future〜alanという中国人シンガーが歌っているらしいが、大貫妙子が作詞、坂本龍一がプロデュースしていて、地球の環境問題のプロジェクトに関係しているらしい。

ただこれはこの大貫妙子のインタビュー番組のタイトルでもある。くしくもまさにタイトルにうってつけな話を聞くことができました。
ちなみに同世代らしき元職場のM大兄に確認すると、大貫妙子は1953年生まれで1959年当時は6歳。さもありなんということか。(Mさんは3歳であったとか)
番組は不定期(さすが巨匠?)隔週火曜にNHKFMで夜22時くらいから、やっているみたいです。
ぜひ興味がある方、あの歌声のジャズともロックともクラシックともなんともいえない世界の好きな方、聴いてみてください。