「詩はどこへ行ったか」を探しに大学(母校)を訪ねる

今日は母校の大学図書館で借りていた本を返しに行った。
結局半分も読めなかったが、ついでに残りの部分も読んだり、書架のいろんな本を立ち読みしたりする。
しかし、いかに卒業生とはいえ、アラフォー?のおっさんが学生に混じると目立つらしく、奇異に思われていたようだ…
実際そんな先輩は願い下げだろう。わたしの立場(失職中)を悟られてはないだろうが妙に目付きが冷たいのを感じる(笑)。
ただ前から、仕事が大学に出入りする業者だったので、図書館のOB利用カードは毎年更新していた。
元職場でアルバイトしていたこの大学の学生をメールで呼び出してみる〜
「メッチャ目立ってますよ〜何でスーツじゃないんですか!?」
と彼もビックリしていた。
たしかに私服の方が目立ってしまうらしい。
さて大袈裟なタイトルだが、直接もちろん聞くわけではないが、大学図書館でいかに「詩」が扱われているか関心があった。
ところが私が卒業して20年も経っているのに図書館に並んでいる本は目だった変化がないのが正直なところだ〜
たしかに文学の棚など変わりようはないのかもしれないが、学生の頃よく見ていた本がそのまま並んでいたり、懐かしく思い手にとって読むと、なんら変わってないことを感じる。そして、それらの本の中身が妙に浮世離れしていることも、つまりはそのことが変わってないのだ…。
なぜなのか、なんとなくわかる気がした〜
どうも読まれてないなぁというのが実態か。
そう、昔もそうは読まれていたわけではないのだ、単にレポートや論文のために読まれることはあるにせよ。
くしくも、帰り道に本屋で立ち読みした「本に読まれる私」(中公文庫)で須賀敦子さんが書いていた。
〜近頃、若い人の本離れが深刻と聞くが、昔だって学生がそれほど本を読んでいたとは思えない〜
そんなことを書いてあった。
しかし、今の時代、本を読むとはどういった行為なのだろう。同じく立ち読みしたものに、岩波新書の別冊「本と私(鶴見俊輔編)」があった。
これは本があまりにも昔に比べ売れないのでそれに危機感を感じて急遽、一般の本好きの方々に本と自分との関係を書いてもらったらしく、わりとたくさんの応募作の中から、選んで本にしたものらしかった。
編者の鶴見先生は、「(自分の読んできた)本は自分なのだ」とあとがきに書かれていた。
これは、まさしく至言なので、買ってきた本でもなく(買ってきただけでも数ミクロンの比重ではそうかもしれぬが)、ましてや売れている本でもなく、読んでいてかつまた読み返される本というものが、自分の一部となってしまうことを言われているのだという気がする。
となるとそれはやはり物体としての本というより、書かれた作品として、ある思想の発現としての本ということだろう。
そういう意味では、新しく出版された本以外の意味も含んでいて、そうなると本は意外とまだ読まれているのかもしれない。
詩の話が、本の話になってしまったが、大筋は似たようなものか。
しかし昔の人たち、つまり全共闘の世代の人たちがイデオロギー論争していた頃、なぜあんなに本が読まれかつ党派により闘争があったのか。
そしてわれわれにせよ、そうしたサークル(政治系サークルではありません。別にそうでもいいのだが、これもへたれの証拠か…)に足を突っ込んだからだろうが、自らの主に思想っぽい発言や文章には、理屈っぽい論客に備えて、逃げ場や言い訳を考えておかねばならぬ不穏さがやはりあったし、当時よく読んだ本にしても、そうした丁々発止のやりあいがあり、ほとんど意味がわからないなりにも、自分ならどの立場を取るかと頭を悩ませたものだった。
しかし、当時浅田彰さんがスキゾキッズというスローガンを打ち出し、ポスト構造主義の考え方から、そんなことじゃ行き詰まると提言しはじめた頃だったように思う。
いまやそんな思想的な立場でアイデンティティをあらわす風潮なんて、はっきりいって消滅したように思われる。
どんな考えの文章を発表したところでおとがめはない。
(もしかするとなんらかの機関がこうしたブログを定期的に調査したりしている可能性はあるが)
いまの若い人を責めているのではなく、いまのいわば先進国社会が一般的に、象徴的にはベルリンの壁崩壊後、革命を志向した社会主義思想そのものが無意味になり、そういうものになったのだろう。
ただ風潮としては消滅したが、思想そのものがなくなったわけではもちろんない。語られるべき場所や研究されるべき機関では、語られ研究されているであろう。時代性の一種のブームのような盛り上がりは決してないにせよ。
少し、最初いいたかったことがただある。
社会人になってからおそらく見向きもしなかったが、また、なんらの意味もないことかもしれないが、もし、年下の若者に、思想について、いまの世界についての自分の考えを聞かれたら、どう答えるだろう。
はっきりいって、うまく答えられまい。
昨日「詩はどこへ行った」という記事を取り上げたばかりに、気になってしまった。
それらのことを、いまこんな立場だからできるのかもしれぬが、自分なりに少しづつだが、考えてみようかなと思った。
たんにそういま疑問に思っただけであるのではあるが。
自分にうまく答えられるものなどあったためしがあるか?
しかしそれに挑戦しなければ、こんなものを本当は時間をかけて書く意味はないのだろう。
しかしどうも私も、かなり浮世離れしているみたいな気がする…。気のせいかもしれないが〜