出町柳のげんげ〜現国で知った中原中也の詩「吹く風を心の友と」 中原ブログ発見〜アラフォー5年鑑13・1979年

先日、用事があり出町を通った際、出町の三角州の西側の橋、葵橋の土手に下りひさびさに少し歩く。気温が大分上ってきたため、ベンチに座っている人も多い。ここからは、京都の北山が一望できる。わたしの住んでいる岩倉の山、箕ノ裏ガ嶽もみえる。

さて、土手を見るとれんげ(げんげ)が咲いていた。この花は、わたしが子供の頃は田んぼによく生えていた。いまは見かけなくなったが、休耕田がたいていガレージか何かになっているからだろう。加茂川の土手は、まだ雑草が伸びていず、げんげが生息するのに最適なのだろう。

この「れんげ(げんげ)」で思い出したものがある。中原中也の「吹く風を心の友と」という詩だ。

(吹く風を心の友と)

吹く風を心の友と
口笛に心まぎらはし
私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は
煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、

とんで行つて、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
耳を澄ますと
げんげの色のやうにはぢらひながら遠くに聞こえる

以上が2連目までであるが、「げんげ=れんげ」が出てくるのだ。

この詩には、タイトルがない。なぜなら、中原が意識して出版した二冊の詩集『山羊の歌』と『在りし日の歌』には収録されていない未刊詩篇だからでもあろうが、(未刊詩篇でもタイトルのある詩はある)「無題」というタイトルの詩もあるのに、発表するまでタイトルはつけないでいたのだろうか。
なので、『吹く風を心の友と』というタイトルで流布しているようだ。
この詩は、わたしが15の頃(本来は16の年代だが、早生まれのため)高校一年の現国の教科書に載っていた。昨年5月このブログで紹介した小林秀雄中原中也の三角関係を教えてくれた教師がいて、たぶん、そのとき取り上げていた詩だったかもしれない。

中原の詩はその頃特にいいと思っていたわけではないが、詩集を買った。どちらかというと小林秀雄の周辺人物として接していた。
わたしの場合、30歳を過ぎサラリーマンになってから、いいと思うようになった。この詩も、努めて覚えた記憶はないが、こうして出てくるというのは、一種の麻薬のような愛唱性といったものがあるからかもしれない。そして、この詩が、中原的なことは、未刊でどことなく「よそ行き」でないからか、ダイレクトにそれを思わせる。

ネットで「中原中也」「げんげ」をググってみると、かなりのサイトがヒットして、ばっちりこの「吹く風を心の友と」が取り上げられていた。この詩の人気を物語る。
わたしと同じく、「現国の教科書で知った」といった方も見受けられた。

おどろいたサイトがある。結構うえの方でヒットしたが、中原の全詩を未刊詩篇も含め作成年代順に丁寧に取り上げ解説されている。
そこで、この「吹く風を」を取り上げられていたのがヒットしたのだ。(トラバします)
http://chuya-ism.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a521.html?cid=70599146#comment-70599146

ここにこの詩の作成が1931年と明記されている。
中原は、出町に長谷川泰子と同棲していた時期がある。その頃、たぶん加茂川をよく散歩していたはずだ。出町三角州から逆三角形の左側の辺を北上すると鴨川は加茂川となり(表記が異なる)上賀茂神社方向へ、右側の辺を北上すると高野川となり、宝ヶ池大原に至る。
かなり昔、テレビドラマで中原を取り上げていて、中原を演じた篠田三郎(懐かしい!)が、川の土手を歩いているシーンを覚えている。
その途上、あるいは中原は土手に群がり咲くれんげを見ていたとしても不思議はない。しかし、1931年は中也24歳の頃で、東京時代である。
加茂川の土手で、あるいは中原がこの地であの「吹く風を」を作ったのではないかと考えたが、どうやらちがうようだ。
しかし、このようなサイトと出会えたのは、れんげの仲立ちだあったからかと思う。なんと、中原の『帰郷』を英訳(Home Comming)し歌にした音源を公開されている。→http://chuya-ism.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/omecoming_6606.html

くしくも、今日同じ詩を取り上げられていたブログも発見した。

http://hicrhodus.blog89.fc2.com/blog-entry-90.html

今日は、昨日の雨が上り、空は曇っているが、風が強い。
中原の「15の春」は、意外な場所で見事に花開いているといえるだろう。