文学にみる暑い夏〜幸田文「父」の昭和22(1947)年の夏

「なんにしても、ひどい暑さだった。それに雨というものが降らなかった。あの年の関東のあの暑さは、焦土の暑さだったと云うよりほかないものだと、私はいまも思っている。前年の夏だってその前の夏だって暑かったのだろうが、日本はまだ戦っていた。誰の眼にも旗色は悪く、戦争の疲労と倦怠になげやりになっていたとは云え、それでもみんなそれぞれの親を子を兄弟を砲弾の下に送ってい、自分たちもいつ空襲に死ぬかわからない恐怖で、暑さなんぞに負けてはいられなかった。終戦が八月十五日、すでに秋の気が立っていた。そして翌々二十二年夏、新聞も何十年ぶりかの暑さと報じ、実際寒暖計もそう示していたろうが、人の気というものも暑さに弛緩して反応なく、うだれうだったなりにふやけていた。」
幸田文「父・こんなこと」新潮文庫,p.9)
「父―その死―」は、幸田文の実父、幸田露伴の死を看取る娘・文の私小説で、この文章は小説の冒頭である。臨終まで約八割の文章に「菅野の記」という章のタイトルがつき、残りは「葬送の記」とある。
露伴は明治の文豪で文は次女であるが、あまり明かされない理由で嫁ぎ先から父の元に戻り、老父の身辺の世話をしていた。戦争中、露伴は「足掛け三年まる二年余」寝たきりになり、終戦後ふた夏目のこの年、七月三十日の臨終まで、文はその一部始終をそばで見、明治の文豪の最後を見届け、その何年後か、この小説として記録した。
文豪の娘は、父の存命中は筆をとることはなかったが、父の死後この作品で小説家として、また稀代のエッセイストとして大活躍するに至る。
文豪を父に持つとは、そして文豪であっても父としてしか見れない血の繋がった娘として、その父を文章で綴るとは、どんな苦労がともなうものか、父であっても文豪ともなれば、病を看取るのも容易ではなくなる。
「父」にも、その続編で露伴との生活の思い出を、昔の躾の厳しさの時代的回顧とともに綴った「こんなこと」にも、文のそんな複雑な想いが見え隠れする。
しかし最後には、そんな文の患いさえ、分かっていつつ、労りの気持ちを持つ露伴に、娘として親子の絆を見い出す。
文章にしたのは、文も「文士の子」として生きようとする覚悟だったのか、それとも容赦ない文壇の要請に応えただけだったのか。
動機やいきさつはともかく、後世にこの文章は残された。
わたしは思う。なんという美しい日本語が実在したのだろう。まさしく文も露伴の最後の作品であり、娘はそれを誉れとしたにちがいない。
その美しさは、この夏の暑さ、「死」をも含む自然の猛威に立ち向かう、われわれのよりどころとなってあまりあるものではないだろうか。