2011.5.31 わたしの一日・左京ワンダーランド〜星空スタンプラリー

今日は、一種の旅(時間旅行)のような、一日だった。しかもわたし一人の夢のような。そういう一日を再現するには、おそらくプルーストのような、もしくは金井美恵子のような文才が必要であろう。

わたしにはそれは到底無理なので、メモ程度に、しかし少しこの際、モンタージュ(ヌーベルバーグ!)風に書きます。

ガケ書房のUさんと、はじめて話す。面と向かって話すのは初めてでした。なので少し緊張しました。(こういった経験が誰しもあるかと思います。)おそらく、Uさんもそうであったと思われます。

ガケ書房には、今週末開催される「星空列車 左京ワンダーランド号」、当日出店を募集していたひと箱古本市http://gakegake.blog.eonet.jp/default/2011/05/post-8939.htmlについて前日「締め切りました」とブログに出ていたことの確認(しつこいようだが)のために行った。

Uさんいわく、ひと箱古本市は、東京ではけっこうにぎわっているらしい。しかし関西は低調とのこと。なぜだろうか。

いろいろ本を見て、田中優著の『原発に頼らない社会へ』という本を立ち読み、ひどくよい本に思え、予定がなかったのに買ってしまう。

しかし、近々、いま深刻な影響が懸念されている放射能について、正確な知識を得るため、実は勉強会を企画中だったので、これは資料のひとつである。

他にも、ほしい本が出てきたが、我慢した。『中学生のためのこづかい帖』(主婦の友社刊の付録風の本?300円、なぜにこのような本が、、)、『試験と競争の学校教育?(タイトルうろ覚え)』(講談社現代文庫)など。『13月カレンダー』なる興味深い本もあった。

一緒に行ったNさんに、この北白川周辺には、中高生のときよく来ていた話をしながら、別当公園(北白川小学校の裏)のトイレに小用を足しに行った。近所である家を壊し更地にしていた建築業の兄ちゃんが先にトイレを借りておられた。(あとで、その業者の方と発覚)公園では、たくさんの子供が遊んでいた。

昔、わたしがこの北白川で遊んでいた頃、別当公園の裏に「北白川英数アカデミー」という進学塾があり、いまは、建物はあり、中に電気もついていたが、看板がはずされていた。

そのすぐ前で、電信柱の影で遊んでいた女の子が、われわれに「こんにちは」と挨拶してくれた。細いフレームのおしゃれなメガネをかけていた。

ガケ書房で「左京ワンダーランド」というフリーペーパーの記事(http://chise.in/sakyowonder11/)を見たら、「星空スタンプラリー」という欄があり、そのラリーに参加している店舗を利用してスタンプを押してもらい、3つ目で記念品をもらえる、ということが判明した。まず、ガケ書房で一つ押してもらった。(京福電車のイベントも「左京ワンダーランド号」だったのに、まったく気づいてなかった)

Nさんと北白川通りを歩いていると、右のほうに気配を感じた。見るとそれは、田んぼだった。水の光だったのか、急に建物が途切れて、風が吹いてきたのか?不思議だった。人に似ていた。

わたしは、そこからNさんと別れ、一乗寺の繁華街へと向かう。昔、このあたりはよく来た。こうしてゆっくり歩くのは、実は先日大阪から来た友人と最近歩いたのだが、まだ昔のままのところが案外多い。
 たとえば、この明星タクシーの社屋。(いま、タクシー関係の仕事をしているので、感慨深い)

用事もあったので少しだけ急いでいたのだが、そこで、ふと目を転じると、噂で聞いていた古書店「萩書房」があるではないか!



(店の前にあった看板!)
(このブログを見ているかもしれない広島のM君、この書店知ってた?)

こんなところにあるとは。驚きつつ、店内に入った。店には、既に二人のお客さんがいて、本を物色され、わたしが店内に入ると、一人出られた。店内は、わりと広い。

本を買うつもりはさらさらなかったのだが、、、ここでも、いろんなものにめぐりあってしまった。入り口外の100円均一のワゴンで、宝島別冊の「現代文学の取扱説明書(タイトルうろ覚え)」の中で、そうそう、昔わたしが学生の頃、よく見かけた青山南という方が、対談している。

ちくま文学の森」は、「ノルウェイの森」ほどの量ではもちろんないにせよ、あの手の本としてはずいぶん売れてますね。

という発言を(青山氏ではないかもしれないが)目にする。ということは、「ノルウェイの森」が出た1987年頃の本か。
店の中に、その村上春樹の「ノルウェイの森」単行本上下巻が、セロファンでまとめられ、500円でおかれていたのが、ひどく懐かしい。この本は、新刊発売当初、このように書店に平積みで置かれていた。あの赤と緑の色の本が、当時飛ぶように売れていたのである。(ちょっと前『1Q84』のときも、そうだったが、、)

店の中には、なぜか村上春樹講談社文庫の黄色い背表紙の本、『風の歌を聴け』や
1973年のピンボール』など、わたしが学生時代に友達の家にあった本が多いように思った。一方、古い(背表紙の文字が薄いくらい)岩波文庫が、セロファンに包まれところどころにはさまれている。

学生時代から遠く10年も経ってから、学生時代に読まなかった代わりに、村上春樹の文庫になった小説を読み始めた。ただ、『風の歌を聴け』は、以前会社にいた村上ファンの人にあげてしまったので、持ってない。

そして、ロック関連の本の棚で、『SUPER ROCK GUIDE ピンクフロイド全曲解説』という文庫版の本を見つけた。他にも同じシリーズで『ローリングストーンズ全曲解説』『クイーン全アルバム解説』なる本も一緒に並んでいた。その『クイーン全アルバム解説』の中の一節〜

「きみたちは、もっとオリジナルをやるべきだ。それも、心をこめて、俺だったらこう歌うよ」とフレディが話し始める。そして、それはその通りに彼はバンドのメンバーになったのだった。
ロジャーもブライアンもスマイル(クイーンの前身であるバンド:わたし注)の失敗に落ち込んでいた。(うろ覚え)

といったような、クイーン誕生のエピソードが目に入った。

わたしは、いろいろ今月使ったお金の計算などをしながら、今あるお金を確かめつつ、『風の歌を…』(120円)と『ピンクフロイド全曲解説』(400円)を持って、レジに向かった。。。

(また買ってしまった。。ピンクフロイドは、『狂気』と『おせっかい』と『ザ・ウォール』しか聴いたことはないのに、(それで充分?)デイブ・ギルモアの写真がわたしが知っているある人によく似ていることに気づき、衝動買いをしたわけだった。)

ピンクフロイド』の最初のページを抜粋する

ピンク・フロイドはブルースをベースにしたサイケデリック・ロックとポップなヒット・シングルを共存させ、ジャーナリスト達に“電子音楽ロック”と誤った評価を受けたものの、史上最高のヒット・アルバム『狂気』を創り出し、人類史上初めて宇宙空間で聴かれるミュージシャンとなる。また、バンドの中心人物を1人ばかりか2人も失い、全200公演のスタジアム・ツアーを行い、下着泥棒の歌を歌い、その一方で「ふさふさした動物の不思議な歌」を歌い、しまいには暗黒の大作『ザ・ウォール』を歌ってきた。そのような過程を経て、彼らは王者の栄冠を守り抜いてきた。(『ピンク・フロイド全曲解説』アンディ・マベット:著 山崎智之訳 シンコーミュージック刊 P.7)

なかなか劇的な序章である。(これは、ライターが外国人なので、いわゆる翻訳である。偶然だが、一緒に買った村上春樹風の歌を聴け』の文章とよく似ている。春樹さんの初期の小説は、いまでもロック雑誌でよく見かけるこの手の翻訳文章だな〜)

萩書房の店主は、最近グレゴリー青山氏の「京都案内」にマンガとして紹介知れているのを、善行堂の店主に先日店で見せていただいた。そのことを、レジで告げると「善行堂さん、うちを紹介してくれるんやね?」と、びっくりされていた。

さて、店を出てさらに一乗寺駅に歩いていくと、ちょうど修学院第二小学校へ行く道と交差するあたりで、道わきのマンションの中から、自転車を出している女性が目に入った。その方が、京福の踏み切りで遮断機がちょうど下りて、わたしが待っていると後ろから自転車に乗って追いついてきた。(どうでもいいことだが)
ちょうどそのとき、その踏切から南に線路沿いの細い道があり、ちょうどその道の真ん中くらいに手塚治虫のマンガをたくさん置いていた古本屋が昔あったことを思い出していた。(今あるかどうか、確かめに行く元気はなかった。)

ちょっと疲れ気味だったが、恵文社一条寺店に入った。もう、あたりは暗くなっていたが、店の前に置かれた昔風の木のベンチに腰掛けている女の子を目にすると、入っていかないといけない気にになる。(がんばらないと!)

わたしは、かれこれ25年ほど前、学生の頃、いまの恵文社とはまるで違う普通の本屋さんだった「けいぶん社」に立ち読みをしにきていた。(あの頃は、たしか赤い木の書棚だった。今と共通なのは、平積みの本が、たの書店にはまずない文学書が多く、ラディカルな雰囲気が濃厚だった覚えがある。)

新聞広告で見ていた、講談社文芸文庫の新刊、『中上健次×柄谷行人全対談』が平積みされていたので、手に取って、読み始めたら、やめられない。。。

(以下うろ覚えの引用ですみません)
中上「小林秀雄が戦争に行ったとかって、彼は従軍記者として中国へ行っていただけで、戦争を経験したわけじゃない。戦争というのは、国と国のぶつかり合い、つまり交通なわけで、彼はそれを見ずに、戦争へ行ったなんていっているんだ。、、、」

柄谷「わたしはいま江戸時代に芭蕉が見ていた「風景」が「文」でしかなく、「風景」とは、明治の文学者が生み出したもので、いまやその「転倒」が隠されている「制度」であるというのを、考えている。「風景」は、いまのような形であらわれたのは、明治以後であって、それ以前にはなかったのです」
中上「坂口安吾が『教祖の文学』で言っていたのは当たっているね。つまり、小林秀雄の将棋についてなんだけど、どんな奇手奇策で勝負してくるかって構えていたら、すごく定石どおりの将棋を指してきて、ちっとも強くない。それが、小林秀雄の本質だって書いていたんだ。彼は、正しいことしか言わない。間違いを自分に認めない。」
柄谷「俺の碁は中盤から強くなるんだ。つまり、定石しか打てないということは、想定外のことが起こると対応できないってことさ。、、」

これらの批判の内容が痛烈で痛罵を思わせるのは、当時の(既成)文壇がいかに小林秀雄の呪縛を深く受けていたのかのカウンター(反作用)的な反応だったと思う。
昔、学生の頃、同じように本屋で立ち読みしていたことを思い出した。その頃、わたしは小林秀雄ファンのひとりであったので、かなり情緒的に反応し、どうも読んでもわからず、小林秀雄に感動するのが、いけないことのような、気持ちに妙なねじれを感じた。
そう、そうなのだ、中上も柄谷も小林に「ねじれ」がないと、言っているのかもしれない。
「交通」「物語」「風景」「制度」それらの中上・柄谷用語が何を意味していたか、今もって理解できないが、こうして文庫化が今されたことは、何か意味があるのではないだろうか。(地震のあとなので、特に言葉が新鮮に見える。)

とくに、中上健次のいままで文庫にもなっていなかった(ように思うが)『軽蔑』という作品が、突如映画化されている。

少々、頭がパンクしそうになりつつ、そのまま店を出た。(こんな衝撃をいつから受けていないだろう。おそらく、30年近い時を経て、どうもいま何かが起こっているに違いない、などと思いつつ)

そのまま、夕闇というより、すっかり夜になった、東山通りを渡り、高野川へ向かう。

高野川は、水がおおく怒涛のように流れていた。土手では、ギターを出して、練習する若者や、向こう岸にトランペットを吹く音など、台風の去ったことを思い、川の写真を撮った。


下賀茂へ行かないといけなかったので、玉岡町で橋を渡る。
そして、松ヶ崎浄水場の塀の間から、黄色い花がわんさと咲いた花園が見えるのが、なんだか不気味だった。その鉄の「禁止」を強くにおわせる門と、不釣合いな見事な花園が。

ピンク・フロイドならジャケットにしそうだ。

下賀茂の「キッチン・ガーデン」が、「左京ワンダーランド」に載っているので、てっきりスタンプラリーのはんこをもらえると思い、寄ってみると、「うちは対象外です〜」といわれ、よく見るとその通りであった。しかし、旬という表示があった「えんどうまめ」(250円)を買った。

下賀茂のアメリカで、知人に頼まれた「プライド」のDVDを借りる。(今日火曜は50円引きサービスデーだ)

バスが行ったばかりだったので、少しでも運賃を押さえるため、次の停留所まで歩く。北山通りから深泥が池へ向かう道ぞいのローソンを超えたあたりで、外人の観光客らしきカップルに道を聞かれた。

なんと、「愛染倉」と書かれた紙を出し、そこへ行きたいという。(「キッチン・ガーデン」の兄ちゃんが、「愛染倉」の料理に自分とこの野菜が使われるといっていたな。しかしわたしは行ったことはない。ただ、場所はいちおう知っている。)

どうも、道に迷っているらしい。英語などめったに話さず、得意でもないが、なんとか、ここから歩いて15分か20分かかるので、タクシーで行ったほうがいいのでは、と言えた。ちょうど、近くの交差点の角をタクシーが通ったのにきづかれ、すでに女性のほうが手を上げていた。彼らは車中から、わたしに挨拶してくれた。

バスを待っていると、太いタイヤのバイクを手で押しながら、ちょっと立ち止まり、携帯の表示ライトを、燃料計のあたりにかざして、量を確かめている兄ちゃんが通った。ガス欠らしい。その後姿を見送っていると、バスがやってきた。

なかなか長い一日だった。(記録は半日ばかりだが、やっと終われる)
(Uさん、新設のブログこれから見ます。)