農作業〜干しわらの思いでと尾崎豊の人気の頃のこと

今日は日頃手伝いに行っているKZさんのファームで先月すでに苅り、稲木(だが実は建築足場用鉄パイプを組んだ)に干していた米の脱穀をしてきた。
わたしが子供の頃は、近所に田んぼがたくさんあり、稲刈りのあとこの稲木に干された米の稲というものが何重もの壁を田んぼに作り、迷路のようだったもので、そこで遊ぶのはなんとも面白いものであった。
わたしは近所の住宅地の「よそ者」だったので脱穀なぞその頃はしたこともなかったが、毎年その風景は回りにあった。今やこういう景色が消滅して久しい。
つまりコンバインで稲刈りと脱穀が同時にできるため、干す手間が省けるようになった結果である。
そのことに気づかずにいたが、米作りを手伝ってやっとその意味に思い当たった。
脱穀後、穂の米を機械で収穫された稲は、わらになり田んぼのうえに積み上げられた。
このわらもわたしの子供のころは田んぼにたくさんあり、格好の遊び場になっていた。
その上で宙返りの練習をするのである。思えば危ない遊びを平気でやったものだ。そして農家の方がたもなにも言わず遊ばせてくれていた。
稲木に天日で干すと、米が美味しくなると言う説もある。だが、こういうやり方は昔式だ。そんなことをやっている農家は、わたしが手伝いに行っている南丹市日吉町でもほとんどない。

たしかに機械があれば、そんな手間なことは労力も時間もいるし、やりたくはなかろう。
KZさんは、最近売る目的でなく農業を始められたので、機械化せず無農薬でどこまでできるか様子を見ながらやられているようで、昔懐かしいこういう稲干しやわらを間近で見るだけでなくやることができたことは、非常にうれしい。
東北がいろんな苦難に直面し、いろいろ気遣わねば農業ができない状況もあるから、なおのこと、こうした体験は得難く思える。

さて、本題に入るが、昨日だったか、新聞に尾崎豊の「遺書」(めいたメッセージ)が死後23年か24年になる今年、はじめて公開される、という小さい記事があった。
これは、亡くなったときまだ小さかったお子さんのことを配慮し、その子が父親の死因のことを自分の考え方で受け止めることができる年齢になるまで公表を控えてほしいという遺族の申し出があったから、いまやっと公にされると記事には書かれていた。
少し前にも、これはテレビのニュースで、尾崎ハウスという、彼のその死の「事故」(自殺と報道されていたが)があったその当時の彼の自宅が、老朽化のため取り壊される、ということも知った。
その尾崎ハウスは、遺族の管理下にあり、彼の熱狂的なファンが度々尾崎を忍び訪れ、遺族の方の好意で、彼がいた部屋に泊まったりもしていたということも知った。(尾崎ファンであるわたしの年下の友人に聞くと、ファンの間では有名な一種の「聖地」であったらしい。)
もうそんなに年月が経つとは、驚きつつ尾崎豊が熱狂的にファンを増やしつつあったわたしの大学時代をすこし思い出した。
あの頃、急に潮目が変わったように、わたしより一年か二年くらい年下の人たちはこぞって、「オザキ」を呪文のように唱え始めた。少なくともわたしは、そう感じた。
わたしはオザキの音楽をそれほど聴いたことはなく、それほどすごいやつなのか、疑っていた。
ちょうど大学から学生運動の匂いがあらかた消失した頃、わたしは大学に入った。1983年である。その当時のわたしの同学年では「オザキ、オザキ」というやつはいなかった。わたしの友達は吉田拓郎のファンまでいたし、また左翼的な政治サークルも、民主○○同盟なぞとはまた別にまだ残存していて、そういう匂いみたいなものは、衰えたとはいえ少しは残っていた。
ところがたしか翌々年、新入生を迎えるやいなや、彼らはすでにオザキの信者が多く、共通の言語のひとつとして彼の名前ではじめて会うもの同士がいともかんたんにつながり、一瞬うらやましく感じた。
そしてその潮目から大学内に政治的な匂いは消え去った気がした。
たしかに田中康男が『なんとなくクリスタル』を世に問い、ブランド、西武セゾン、広告コピーら当時のバブル経済前夜の雰囲気は十分キャンパスに感じられたが、まだ少しだけ、かつての政治少年を思わせる友人や先輩は、肩身狭く生息していたのであった…。

☆積まれた脱穀後のわら