本を読む場所買った場所 もったいぶった紹介

「今Mさんのタクシにいま丸太町東へ。寒い。プロコルハルムの青い影がかかっていた。本屋で春樹のシューベルトピアノソナタについての文章立ち読みする。」

2006年4月7日金曜日、午前2時45分にわたしが携帯からパソコンのメールアドレスに打った文面である。この立読みした村上春樹の本は、『意味がなければスイングはない』である。今は文庫(文春文庫)になっているが、立読みしたものはハードカバーだった。のちに、わたしは文庫のほうを買って読むことになるが、このときは買わずに帰ったのだ。
ちなみに、Mさんのタクシーには、当時毎日のように乗らせていただいた。終電さえ乗れない時間まで残業していた。(今はときどきしか乗らないが)会社から交通費が出るわけではなかったが、勤務時間が不規則なうえに、その頃自分の仕事は営業時間外しかできないような忙しさだった。
こんな文章も携帯から自分にメールしていた。2005年10月2日金曜日の日付。

「秋なのに蒸し暑い昨晩自転車で帰る○○(会社の行事)なのに起きれず翌日の夜からカウントして朝なにをやるべきか書き出して寝ないととうてい12時までに帰れない。長く寝ても疲れはとれないと学習すべきだ。朝にやることを決めないと仕事が終わっていかない。」

サービス業という仕事の性質上やむを得ない部分はあるが、いまから思えば、時間管理がうまくできないのが、悩みだったようだ。

最初のほうのメール、珍しく懐かしい曲がかかっていたから、日記めいたメールを自分に打ったのだろう。そのついでに、その前に立読みした本のことを添えた。そのときのことは、今もよく覚えていて、どの部分を読んでいたかも、ある程度覚えている。本を買った場所、読んだ場所は、その読まれた本の背景というより、そのとき読んだ内容を探る重要な手がかりでもあり、読んだ内容に彩を添え、その内容さえも支配するものではないかと、思い出している。
燃焼は、可燃物である木や油に火がつき、燃焼を支援する空気や酸素があって、燃える現象である。読書も、もしかすると、燃焼現象といえないか。本は明らかにこの場合可燃物であろう。しかし空気や酸素がなければ、ものは燃えないように、読む場所がそれを支援しており、その支援がないと読書(燃焼)できない、と思いはじめた。
そして、立読みもそうだが、読んでいる場所のみでなく、買った場所も重要であろう。
その場所が本屋であれば、その店に入るまでのプロセス、偶然の場合や意図しての場合もあるだろう、そして、その本を手に取る偶然と、レジにそれを運ぶまでの決断を促すきっかけやなんらかの選択があり、その本をいよいよ買うという行為があり、それをあとで後悔したり、満足したりという感情などなども含め、買った場所というのも、なんだか思い出深く、中身と連動している。
また、買った本を読まずにおいておくというのは、日常茶飯にあることであるが、その置いていた本を、ついに読むということにも、妙な偶然があるもので、おそらく似たように中身と連動せざるを得ないだろう。
わたしは、おそらくは読書家というようなものではなく、読んでいる本はわずかであり、蔵書もそんなにあるわけではない。あまり高価な本や珍しい本は持っていないし、知る人ぞ知る数奇な人の著作より、普通の本屋さんで売っているメジャーな著者のものしか読んでないといえる。(たしかに最近の本屋さんの棚にはないものもあるかもしれないが、一昔前なら普通に売っている本というべきものだ)。
そのようなわたしでも、このような思いを抱かせる本が、いくつかある。そのことを、ときどきここに述べようかと思った。