土井香苗さん・メディアという情報フィルター・NHK-FM「音楽のたのしみ」の吉田秀和はスゴイ

タイトルに話題を盛り込みすぎると、例によって書くこととちぐはぐになるよってに(関西田舎方言)〜。
かまわずいこか〜。
ちなみにJRのICOCAは、関西のみしか使えないとか。新聞で茶化されていたが、関東ではSuicaと呼ばれるJRのワンタッチ改札券、もっといっぱい各地にあるらしい。新聞によると、近くまとめるとのことだった(また脱線している…)。
さて宿題があった。もう一か月経ってしまったが、例の弁護士会の講演会で話した土井香苗さんのことを書かねばならなかった。
この方は、東大在学中に当時最年少記録で司法試験に合格、その後国際派弁護士として活躍したあと、ピースボートで世界を回り途上国の人権問題に取り組み始め、いまはヒューマンライツウォッチという国際組織の日本代表を務められている。また朝日ニュースターというデジタル報道局で、キャスターもされている、かなり美人でまだ若い方である。
知らないと思っていたが、たしかあの勝間和代と対談していたのを思い出した。
彼女が出てくる前に、この日は内田先生が、メディアに対し、先制パンチをあびせていたので、どうもメディア側の人間として我慢ならなかったらしく、いきなり講演冒頭で、カウンターパンチを繰り出していた。
「内田先生は、テレビの人間は時間ばかり気にして自らが報道するコンテンツにまったく興味がないみたいだ、とおっしゃってましたが、そんなことはありませんよ。わたしたちは時計ばかりは見ておりません。ぜひ朝日ニュースターを見てみてください」
と売られた喧嘩をまず買ってみせていた。
さすが弁護士だけあってファイターなのだ。
さて話の中身は半分がプロジェクターを使いながら、自らがアフリカに行ってどんな活動をしていたか、またいまアフリカで問題になっている、コンゴ軍隊による住民へのレイプ等の隠された人権問題を取り上げ、ヒューマンライツ・ウオッチ活動の取り組み方を短編の映画にまとめ放映された。
これら政府側の情報操作により、なかなかメディアで放送されない事実を、彼らは告知しようとしているらしい。

「毎年恒例の『今年の漢字』は『暑』に決まったようだ。しかし論壇に関しては、今年もっとも印象に残った一字はまちがいなく『漏』ではなかろうか」(2010.12.23 朝日新聞 論壇時評 東 浩紀)
昨日新聞でこんな言葉に出会った。
尖閣諸島沖のビデオ流出、ウィキリークス騒動、また女優ブログによるゴシップネタ流出など、インターネットによる情報流出が、メディアとわれわれの新しい関係を迫っている。
非公開と公開の境界をいかに決めるか、従来の政治の常識では見えてこない、と東さんは書いている。
これらの事件の背後には、もちろん政治不信があるのは当然だが、いわゆるマスコミに対する不信があるように思う。
インターネットのほうが情報が早いだけでなく、よけいなフィルターを通さない分、生の情報が流出される。その信頼性は、やはり換えがたいものがある。
例の海上保安官も、「みんなに情報を見てもらい、自分で判断してほしかった」というコメントを残している。
マスコミはネットのその迅速性と一種暴力的なその直接性に、驚異を覚え、立ち尽くしているごとくである。
彼らはいかに信頼性を取り戻すつもりなのか?
情報にフィルターは必要ないのだろうか。これから論議されるべき問題だろう。
わたしは、フィルターは必要じゃないかと思っている。
生の情報とはなにか?それはつまりは現場にいることに過ぎないし、それ以外の生はありえない。
インターネットの直接性は生に限りなく近づくことはできるだろうが、疑似の生でしかない。
フィルターのない情報はありえない。
哲学者のカントは、人間は物自体に永遠に触れ得ない、と言った。
つまり脳を介してしかわれわれは現実に接しれない以上、厳密に言えば、情報そのものが永遠にフィクションと言える。
だから、わたしたちは「他者」を介してしか情報をじつは入手できないのだ。
自分という存在も、情報をいったん脳というフィルターにかける以上「他者」である。
だから、あまりこういう議論をしだすとはじまらないかもしれないが、いずれにせよ、他者を信じるよりほか、情報を入手できない。
マスコミが、ネットに対しどんなに不利でも生き残るとすれば、われわれの信頼を勝ち取るしか道はないし、ある種のフィルターを信頼できる質の高いものとして磨きあげるしかないだろう。

かく思ったのは、昔から、亡くなったわたしの父の時代からやっているNHK-FMクラシック音楽番組で、吉田秀和さんがパーソナリティを務めている「音楽のたのしみ」を聴いたからだ。
毎週水曜の午前10時から今までの放送の再放送らしきものをオンエアしている。
この放送のすごいところはどこか?
最近気付いたが、この放送で聴くとたしかにクラシック音楽の素晴らしさ、演奏のすごさがわかるのである。
なぜだろうか?
たぶん、実際スタジオの中ではあるだろうが、ある意味ラジオはライブ、つまりDJがしゃべり曲をかける、その間も電波はスタジオの空気を流している。
これはいままで気付かなかったが、ラジオは魔法のようなメディアで、パーソナリティとの共時性を、疑似でなくライブで体験できるのだ。
つまり「音楽のたのしみ」で何が起こっているかというと、わたしはあの吉田秀和とともに、シューベルトやベートーベンを聴き、そのうち何秒かは彼の「耳」を通して、聴こえてくるのである。
だから一人でCDを聴いただけではわからない音が聴こえてくるのだ。
これは不思議だがほんとのことだ。その例はまた機会をみて語るとして、情報にはやはり優れたフィルターが必要なのである。
それが公共の信頼と言うものではないか。

追伸)元春レィディオショーでも一緒です、たぶん。