ゴールデン・ウィークにはいった、と何か大袈裟に前回書いてしまったが、実際のところ、まだ今日30日は月末?のせいか仕事の人も多く、もちろん学校もあった。
郵便局や銀行も開いていた。だが、どうも通勤はやめれるところは早くからリモートになっていたらしい。(たぶん大手だけだろう。)
昨日のつづきみたいな感じだが、わたしにはときたま無性に読みたくなる本があって、それは椎名誠がデビュー当時書いていた短編小説だ。
なんだかそのときの気分は独特で、気持ちがくさくさして塞ぎがち、体調が悪かったりして、もう寝てしまおう、なにが起こっても知ることか、みたいに思っていて、椎名誠のその小説世界をひたすら求める自分に気づきあわてて彼の文庫本を探しに本だなをみにいくのだ。
その昔大学を就職先も決めずに卒業だけしてぷらぷらしていたとき、気持ちが落ち込むなか、わたしはその頃もう流行りのピークがすぎていた椎名誠に出会ったのであった。
たしか、それも時期的には5月のGWだった。いまからもうかれこれ30年も前のことだ。信じがたいが。
大学のサークルの後輩の結婚式が遠くで行われた。彼はわたしと同じ年に卒業し、社会人1年目か2年目でもう結婚した。わたしはまだプラプラしてたけれど、それに参加しにいった。もはや旅行に近い。卒業旅行も理由はないが行かなかったから、久しぶりの旅だった。
そのとき、たまたま買っていた椎名誠の短編集『蚊』を持っていったのをうっすら覚えている。
だが、この傑作短編集の最初の作品、知ってるかたは思い出すだろうか、「情熱のやきうどん」を読んだときの衝撃をわたしは忘れられない。
すごい感動というか、これが小説なのか、というなんだかわくわくするようなおかしさに襲われ、以来時を経たいまも、たまに手に取らずはいられなくなってしまった。
いまでも、『蚊』を読むとあの頃の5月のまぶしい日差し、旅先で大学の先輩と訪れた有田焼で有名な窯どころの畦道などを思い起こす。
昨日読んだのは短編集『土星をみる人』の「うねり」だった。
何年かおきに読んでいるがけっこう筋を忘れてしまっていて、あれっこんな話だったっけ、と毎回驚く。
椎名誠は初期のころは、「偽」小説と呼ばれるSFとリアリズムが合体したような奇妙でぶっ飛んだ作品をよくかいていた。
しかし、その後だんだん作風がリアリズムに近くなってくる。それでもどこかその現実感がゆらいで急にSFになりそうな危うさが感じられる。
『土星をみる人』に収められたあたりの作品はその時期のもので、SFっぽさはなりを潜めているが、謎めいていてそれがよかった。
しかしなぜ結末や落ちを読み終わればけろりと忘れてしまい、読むたびにある意味なんども楽しめるのだろうか。
読んですぐはともかく、忘れっぽいわたしが原因だろうか。
たぶんなにか巧妙な仕掛けがあって、なにかの細菌か薬みたいに、ある一定期間をすぎたら消え去るように話の筋を忘れさせてしまうのかもしれない。
それとも、あるいて道をたどらなければ、たどりつけない山のなかの場所みたいに、最初から読んでたどらなければ、そこにいけないのかもしれない。筋だけ覚えることは無意味で不可能なのだ。
たぶんそうやって書かれた物語のたどりつく結末は、下山することでそれを読者に忘れさせ、そうやって読者を何度も誘い、同じ感動を繰り返し味あわせるのだろう。
「うねり」はカップルが夜の海でボートに乗り、潮に流され遭難しかける話である。最後にどんでん返しがある。それをすっかり忘れていた。
「うねり」には月が印象的にでてくる。中原中也の詩を思わせ、詩的なイメージが素晴らしいことに今回気づいた。
コロナでステイホームの連休にぜひ手にとってみられてはどうだろうか。
一種のアレルギーみたいに訪れる椎名誠現象は、まるで、そう、○○みたいですね。